COMMON ROOM


旧覆い堂の内部1(室町時代 重要文化財)
旧覆い堂の内部2
火打ち材を利用して出隅の垂木を支持しています
旧覆い堂の内部3

第7回『建築と仏像のさまよい紀行』 

奥州平泉中尊寺金色堂(岩手県 国宝)

所在地  岩手県平泉町

建物概要 桁行三間・梁間三間・本瓦形板葺

建立時期 1127年(天治元年)創建 平安時代

 「夏草やつわものどもの夢のあと」
 「五月雨を降り残してや金色堂」
 これはご存知、松尾芭蕉が書いた「奥の細道」のなかに詠まれている俳句です。栄華を究めた奥州藤原文化の盛衰を詠ったものですが、彼はどのような想いで平泉を訪れたのでしょうか。
 今回は岩手県平泉町の中尊寺を取り上げます。
 
 まずは、月見坂からの北上川の流れを見下ろします。そして束稲山をはるか遠くに見ると、大文字焼きの部分に雪が積もりくっきり浮き出しているのがわかります。はたして、平泉の風景は平安時代から江戸時代、そして現代へとどのように変わったのでしょうか。
 
 ここ平泉の黄金に装飾された建築や調度品を見るたび、なぜかいつも同じ感覚に襲われます。それはせつない思いです。
 私は、これまでたくさんの古建築を観てきましたが、これほどまでにきらびやかなのにもかかわらず、せつなく感じる建物はありません。背景にある悲しい過去が、黄金の輝きによって、いっそう、そのように感じさせるのかもしれません。
 平泉の栄華は、前九年、後三年の残酷で凄惨な戦いのうえに築き上げられたものであることは、歴史の事実として語り継がれています。そして、その終焉も実にはかなく、奥州藤原一族は、平安時代の終結とともに、「つわものどもの夢のあと」と消えてしまいました。
 
 京より逃げ延びた源義経一行は、義を重んずる平泉にかくまわれました。そして、それが原因で鎌倉幕府の奥州藤原氏討伐の大義になりました。平家によって焼き討ちされた奈良の都の再興に、みちのくの財力は大きく影響したにもかかわらず、源氏によって滅亡してしまうのです。
 今では、奥州平泉の文化の当時の栄華の様子は、建築や仏像の遺構によって偲ぶほかにありません。
 
 訪れた日は、雪深い寒い中尊寺でした。
 世界遺産に登録された中尊寺ですが、1月に訪れる人は少なく、静かな雪の月見坂をおそるおそる歩いてゆきました。
 途中見晴らしの良い場所があったので、杉並木の枝から落ちてくる雪の塊を避けながら眺めると、大きな平野を流れる衣川と、大文字に雪の残る束稲山がはるか遠くに見えます。
 寒いので先を急ぐと、参道脇に並ぶ茶店の石畳を、掃く竹箒の乾いた音がいっそう寒々と聴こえてきます。
 
 参道の途中、右側を見上げると、石段の上に立派な山門がありました。山門は4脚の門で、大屋根を支える梁は、太い丸太でできています。その梁に比較すると、なんとも違和感のある筋交いが露出しています。あまりに大胆な配置なので、おそらく積雪時の地震対策のため、後世に補強したものと思われます。
 本堂は明治時代の建物ですが、これもいかにも雪国らしく、どっしりとした佇まいを見せています。
 
 しばらく参道を歩くと、平坦な広場に出ました。そこには、宝物館である「讃衡蔵」がありました。
 入館してすぐの部屋には、阿弥陀如来1体と、薬師如来2体の、3体の丈六仏が横に並んでいます。そのお姿は圧倒的な迫力で拝観する人を迎えてくれます。私以外にはお一人の方のみという、なんとも贅沢な空間を満喫することができました。
 そのとき脳裏をよぎったフレーズは演歌調につい「みちのく~ひとり占め~♪」と口ずさんでしまいます。
 さらに奥に進むと千手観音立像があります。腰まわりのきゃしゃな仏像です。仏像をお姿の好き嫌いで表現することははばかられますが、奈良時代の豊満なお姿より、個人的には好みです。京都三十三間堂の仏像のような雰囲気を持っている、とても洗練されたプロポーションです。
 さらに進むと文殊菩薩と眷属4体の群像が見られます。平安時代と記載がありますが、とても保存状態がよく、現代のお雛様飾りのような雰囲気を持っている仏像でした。
 
 讃衡蔵をいったん出て、金色堂にむかいます。50m手前の場所からでも、覆い堂の隙間からのぞく金箔の輝きがもれてきます。覆い堂といっても、出入り口は開け放たれているため、内部も外気と同じ気温です。
 栄華を競った時代の冬の平泉は、今よりも、もっともっと寒く雪深く、静かな場所だったに違いありません。
 とにかく空気が凍りついているためでしょうか、まばゆい金箔や黒漆や螺鈿の反射する輝きが、いっそうシャープに見えてきます。
 
 覆い堂の中に入って驚くのは屋根瓦です。木製の瓦に似せた板葺きです。よく見ると小口の部分が朽ちている様子がわかります。
 また、蛙股の形状も非常に興味深いものがあります。これだけ装飾にこだわったものなのだから、象嵌や蒔絵で装飾したいところですが、金箔で装飾されているものの、形状はいたってシンプルで、とても力強い蛙股に仕上がっています。
 内部の須弥壇は贅沢な工芸品の数々で覆い尽くされ、高欄の細部にまで螺鈿や蒔絵で装飾されています。
 仏壇の配置は、左右中央の須弥壇それぞれに、阿弥陀如来坐像を安置し、全面には、四天王のうち増長天と持国天の2体が、躍動感に満ちた姿で警護しています。阿弥陀仏の左右には観音菩薩と勢至菩薩、6体の地蔵菩薩が埋葬された藤原一族の遺体を極楽浄土に導きます。
 どうしても宝飾で埋め尽くしたりすると、下品になったり、いやみに見えたりするものですが、金箔に埋め尽くされた全体像は、荘厳さと気品に満ちたものになっています。
 
 仏教に帰依し、民衆をまとめた奥州藤原一族は、なにを願いこのようなすばらしい仏教文化を築いたのでしょうか。
 そして、藤原氏を滅亡に追い込んだ源氏の兵士は、これらの寺院や仏像を見てなにを思ったのでしょうか。
 
 近隣の遺構としては、毛越寺や観自在王院・無量光院などの庭や礎石ですが、その跡を散策するだけでも、当時の栄華を充分に感じさせてくれます。
 また、紺紙金銀字経や、すばらしい仏像の数々は、文化水準の高さを示してくれました。また、遠く離れた宮城県高蔵寺阿弥陀堂や、福島県いわき市の白水阿弥陀堂も奥州平泉の藤原文化の一部です。中央の支配が届かないこの地でどのような生活が営まれていたのでしょうか。興味は尽きません。
 ぜひ、東北の歴史を知るために、そして私たちの祖先の偉業を再度確認するために、ぜひ、平泉に足を運んではどうでしょうか。
 
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経蔵(鎌倉時代 重要文化財)
ここには騎師文殊菩薩と眷属4体 紺紙金字一切経が納められていました
弁財天堂
本堂 山門1
武蔵坊弁慶の墓 弁慶の立ち往生の最後や 
歌舞伎「勧進帳」における延年の舞が目に浮かびます
いかにも東北人が好きな男性像です

月見坂より左に衣川、遠くに束稲山の大文字
雪の月見坂 登るのに滑るために苦労します
本堂(明治時代)
金色堂への参道

弁慶堂
本堂 山門2 4本の柱で大きな屋根を支えています
柱に架かる大きな梁は大きな丸太です