三重塔 正面組み物
 境内にはその他に、阿弥陀堂・薬師堂・天台大師堂・釈迦堂・不動堂・鐘楼などがあります。
三重塔 南西面
三重塔 南東面
三重塔 正面
宝蔵院 表門の蟇股
不動堂
釈迦堂
 慈恩寺、いかがでしたでしょうか。雄大な月山をみながら散策すると、山形県民ならだれでも歌えるスポーツ県民歌「月山の雪」が聞こえてきます。ここは山形の人たちにはとてもなじみのある自慢の景勝地なのです。
 

 最後に自慢ついでに私のふるさと山形の食文化自慢を。
 とにかく食材の豊富さとオリジナル料理はどこにも負けないです。
 たとえば、甘しょっぱく味付けした味噌をつめたアケビの皮の素揚げ(ほろ苦く大人の味)。どう見ても雑草の「ひょう(スベリヒユ)」を干したカラシ和え。河原で調理する芋煮会は、現地調達したキノコ、牛肉と里芋、ネギ、コンニャクに醤油は地元マルジュウにこだわります。
 もちろん高級な食材もあります。最近はラフランスという品種で有名なデコボコ表面の洋ナシ。種無し葡萄のデラウエアやシャインマスカットなど季節を感じさせる独特な食材がたくさんあります。
 また、その家庭ごとに独自の調理法があり、母や祖母の料理は、今思えばなんでも食材にしてしまう貪欲さがありました。
 デラウエアの出荷できないクズといわれる葡萄を貰ってきてかめに入れておくと、最初はジュースでも冬には発酵しだします。風邪などひくと「ケズのんでろ」と葡萄酒を飲んだ記憶があります(時効でしょう)。
 マザコンだとか田舎者と言われても、母や祖母の料理は今でも鮮明に思い出されます。
 

 次回は後編として慈恩寺の仏像を旅します。
COMMON ROOM


   第46回『建築と仏像のさまよい紀行』 慈恩寺(建築と歴史編)
 
 訪れた寺院
 山形県寒河江市 慈恩寺
 

薬師堂 
有名な十二神像が安置されている
天台大師堂
本堂 東側面
 山門をくぐると正面に本堂が建っています。全体の伽藍は本堂を中心に山肌を利用し横に広がります。山岳信仰の修験場のようでもありますが、むしろなだらかな傾斜を利用し三重塔、阿弥陀堂、釈迦堂、薬師堂、などの諸堂が絶妙なバランスで配置されています。
 いずれも江戸時代以降の建物ですが、雪国らしいどっしりとたたずまいで参詣者をやさしく迎え入れます。
山門の蟇股 
力強いシンプルな形状の蟇股が四面に配置される
山門から続く参道は石段になり奥に本堂が見える
本堂南東面
 本堂は、桁行7間、梁間が5間で正面に1間分の向拝が付く平入りです。屋根は入母屋の茅葺で重量感があり威風堂々とした姿を見せてくれます。
 高床の形式や茅葺の勾配、そして軒の出の深さなどは積雪を意識したいかにも雪国独特の雰囲気を漂わせ、それは一種の威厳のように感じます。
 背面に回ると、素材や仕上がりを気にしない壁面が現れ、見えないところは徹底的に合理化するしたたかさも垣間見えます。しかし、風雪に耐えきた多くの部材には劣化の痕跡がありました。
 正面向拝こそ升組を用いた手の込んだ仕口ですが、縁側の屋根を支える部分とそれ以外の三方は舟肘木によってシンプルに屋根荷重を支えています。
茅葺の本堂 南西面
宝蔵院の石段
 次に残された院のうち宝蔵院をご案内します。
 宝蔵院は、慈恩寺本堂の正面向かって右側を抜けてさらに奥にあります。苔むした石段をあがると、4脚の表門(県文化財)があります。棟札には江戸初期の建物であることが記されていて、門の中央には力強く野太い蟇股が構えます。門をくぐると山を背景に、寄棟の瓦屋根の本堂があります。
 慈恩寺まで来たら、ぜひ宝蔵院の苔むした石段を上がってみてください。人里離れた奈良の古寺に訪れたような、すてきな時間を過ごすことができます。
撞くことができますがしっかり教えに従ってください
鐘楼 
鐘の音は寒河江の盆地に響き渡ります
 本堂を正面にみて左側に江戸時代の白木の三重塔が見えます。人の手を加え整地した境内は、すでに自然林と混然一体となり、あたかも以前からからそうだったように静かに人間を迎い入れます。そのような鬱蒼とした森の一角に塔は建ちます。その塔の立ち姿は、一般的に感じる複雑に部材が入り組んだメカニックな人工工作物的外観というよりは、土が盛り上がり大木が生えてきたような感じがします。
 平面形状は、出入り口を持つ中央のスパンを若干広くした三間四方で、上階に向かってそのスパン比を維持しながら徐々に低減してゆきます。
 細部に目を移すと、全体像の野太さとは対照的に、太い幹から三段の枝が成長し、繊細な組み物は、枝から芽吹いた沢山の葉のように見えます。
 たとえば、1階部分の三段桁の間の中備は、少し長めの中央スパンは2か所、左右のスパンを1か所にすることで、バランスを取り間延びすることを避けているようです。さらに、2階と3階には平三斗で支える縁をもうけ、その高欄は意図的に中央で途切れ、左右対称のリズム感を持つ優雅なデザインになっています。
 今も山形には仏壇の制作にかかわる方が多いのですが、緻密な造作はそのような方々に引き継がれているのだと思います。
 なんだか文章でダラダラ書いてしまいましたが、この新型コロナウイルス感染が終息したら、ぜひ慈恩寺に足を運んで実際にご覧ください。
本堂 背面の劣化が著しい部材
本堂 側面の舟肘木と板壁り
本堂 正面角の木鼻
本堂 正面の舟肘木
本堂 正面の向拝
山門背面
山門側面
 境内の入り口には県の文化財である江戸時代の山門があります。重厚な造りの門の外周には蟇股が配置され、華やかさも兼ね備えた造りになっています。そして山門の左右には密迹金剛、那羅延金剛が入山するものを監視します。
山門正面の装飾
山門正面
茅葺の本堂 国重要文化財
秘仏開帳のリーフレット 仏像の多くは国重要文化財
本堂 背面の劣化が著しい部材
本堂 円柱と地長押
本堂 正面の虹梁
本堂 正面のぬれ縁
 あれから10年が経ちました。あの日の出来事が、私にはつい昨日のような気がします。
 宮城に住む人間として生涯忘れることはないでしょう。
 犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
 

 会社は創立して昨年8月で30年になりました。そして同時に私自身が還暦の年でしたので、令和2年は人生も会社も節目の時期だったのでしょう。
 そして東日本大震災から今年で10年。いろいろな節目がありますが、経過した時間で区切りをつけられるものではありません。しかし、なにかそのようなことで、むりやり区切ってしまわないと前に進めないと感じるのは、私だけでしょうか。
 昨年は、大変尊敬していた二人の学問の師が相次いでこの世を去り、進むべき道を模索していた一年でもあったと思います。そのような中、今年に入って私自身が死を意識することになるとは夢にも思っていませんでした。身体だけは丈夫だと勝手に思い込んでいましたが、入院と手術を経験してあらためて健康でいられるすばらしさを痛感しています。
 いまはただ、震災の節目、人生の節目、会社の節目、大切な人との別れ、さらに救われた命の尊さを経験し、仕事に対する意欲と、まだ知らない世界への好奇心が、身体の奥底からマグマのように湧いてくる気持ちを感じます。
 
 さて、昨年10月に山陰の旅を書き終えてから、半年になろうとしています。新型コロナの感染拡大のため、遠くを旅することは叶いません。そして、仏像や古建築の世界に導いてくださった先生とは、もう二度と旅をすることができなくなってしまった今、紀行文を書く気にもなれず引きこもってしまいました。
 先の見えない新型コロナ禍の中、指導者のだらしなさだけが目につきます。いつのまにこんな覚悟の無い人間が増えたんだろうとがっかりする日々が一年間続きました。結局、口先だけの指導者は、有事の際なんの役にも立たないことがわかってしまっただけでも良かったかもしれません。せめて、もっとひどいことが起きた時、彼らが敵前逃亡したとしても絶望しなくてすむタフさを学べただけでも良かったのかもしれません。
 古建築やその歴史を旅すると、過去の日本人の凄まじい執念と覚悟を垣間見ることができます。てっぺんを目指して妥協を許さなかった技術者の気概を、古建築と仏像の旅を通して少しでも感じて学びたいと思います。
 

 さっそく「さまよい紀行」をスタートさせます。
 あらためてはじまる旅は、私のふるさと山形県の慈恩寺です。
 過去のさまよい紀行でも何度か紹介しましたが、東北には素朴で個性的な独自スタイルを持つ魅力的な仏像がたくさんあります。
 しかしその中には、地方にありながら、むしろ中央の香り漂う正統派の仏像を安置する寺院もあります。もちろんその代表は岩手県の中尊寺でしょう。そしてその中尊寺の影響は、東北各地に広がります。今回訪れた慈恩寺もそのひとつで、慈恩寺が所有する洗練された仏像を前にしたとき、おそらくすべての人がその姿に驚きをおぼえるでしょう。
 今回は、前編として慈恩寺の歴史と建物に着目して旅をします。
 
 慈恩寺は、山形県の中央付近にある寒河江市の寺院で、その起源は奈良時代まで遡ります。寺の記録によると、僧行基がこの地を訪れ、景勝である事を聖武天皇に報告したことで、天皇の命により慈恩寺が始まったと言うことです。はたして蝦夷が支配する奈良時代のこの地に、寺院を建立できたかは謎ですが、残されている仏像のレベルの高さをみると納得します。
 平安時代は、寒河江を荘園としていた奥州平泉の藤原家が庇護していたため、鳥羽上皇の勅宣(ちょくせん みことのり)により藤原基衡が修営(建物を造る意)し、興福寺の僧願西上人が再興したと伝わります。
 つまり、この地は奥州藤原の荘寺的な役割だったと考えられ、その証として平安末期の仏像が14体も伝わります。ところが鎌倉時代にはご存知の通り、奥州藤原一族は義経問題から鎌倉幕府に攻め落とされてしまいます。そして、源頼朝の側近である大江広元がこの地の地頭に任ぜられ、以後鎌倉時代には大江氏の管理下に置かれます。
 さらに室町時代末期から江戸時代は最上氏が支配し、徳川幕府より東北一の寺領の御朱印を付せられ、鎮護国家の祈祷寺として崇敬されました。
 ですから、古くは奈良の影響を受け、京都・平泉・鎌倉そして江戸幕府の庇護のもと、つねに中央政権の影響下におかれ、慈恩寺は大きな力を発揮することになります。
 しかし、江戸時代に宝蔵院、華蔵院、最上院の三院と48の坊からなる巨大な寺院を形成していたこの地は、明治維新に御朱印が停止されると急激に衰亡してしまいます。現在は、建物は改築されていますが三院17坊が創建当時の場所に残されています。
  
 栄華を誇っていた当時とはすっかり様変わりしていますが、残された伽藍に建つと、木々を渡る風や鳥のさえずり、草や土の香りなど五感で当時の様子を感じることができるはずです。歴史の重みとはそういうことだと思います。
 
 宗派は法相宗、天台宗、真言宗、時宗と変遷し、戦後は独立し慈恩宗となり現在に至っています。
 現在残されているおもな建物としては、本堂(江戸時代1618年 国重要文化財)、三重塔(江戸時代 山形県指定文化財)、山門(江戸時代1736年 山形県指定文化財)薬師堂と阿弥陀堂(寒河江市指定文化財)などがあり、それぞれの建物の中には驚くような洗練された仏像が安置されています。
 
 駐車場へのアクセスは狭いヘアピンカーブが続きます。途中、観光協会の案内板が慈恩寺境内と三院48坊の位置を教えてくれます。少し進むと車道をまたぐ大きな鳥居が現れ、その先には塔頭を含め諸堂が山肌の南斜面を利用した敷地に点在し独特の雰囲気を漂わせます。
阿弥陀堂 
阿弥陀三尊が安置されている
観光案内板の拡大
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境内へのアクセス 
道路を鳥居がまたぎます
観光案内板 
本堂周辺にはたくさんの坊が存在します