廊下の片隅にある小ロビー
早朝の静かな佛谷寺
ランニングで見つけた歴史の目撃場所
早朝の青石畳通りを走る
ランニングコース
防波堤の灯台は常夜灯
美保関漁港
第44回『建築と仏像のさまよい紀行』(美保神社・佛谷寺)
訪れた社寺建築
美保神社 松江市
佛谷寺 松江市
本殿西側
本殿入り口はそれぞれに付き方流れである
美保神社向かって右側
美保神社本殿 大社造りの二社が並列配置
美保神社拝殿 妻入りで向拝は中央に配置
しおかぜラインを走っていると遠くに
雪をいただく大山が見える
折り返しの灯台
日本海に突き出した東西に長い島根半島の西端は、前回の出雲日御碕灯台が守り、東端を美保関灯台が守ります。いずれも古い灯台ですが、美保関灯台は明治31年(1898)に点灯されたとても古い建物です(出雲日御碕灯台は明治36年)。構造は石造で耐震化も完了しています。早朝のランニング中でしたので、内部を確認することはできませんが、趣のある外観写真をご覧ください。
ここ地蔵崎は、日本の神話「出雲風土記」において美保之碕として登場します。出雲風土記とは古事記や日本書紀に匹敵する古文書です。その中には「国引き」神話が記載されています。それは、出雲の国が小さいので、神様が出雲を大きな国にしようと、他国の余りの土地を綱に結んで引き寄せて現在の島根半島を造ったという話で、力ずくで奪い取ったものではなかったようです(笑)。もちろん「余り」かどうかは両者にしかわからないことですから、勝者の論理でないことを祈りますが、今はそんなことはどうでもよくて、「余りの土地」でできたのが、この美保之碕ということです。
神話は壮大なロマン、いいんじゃないですか、このようなことで楽しめるのは歴史のある国の特権です。侵略して奪い取って移民した薄っぺらな歴史の国とは違いますし、歴史ある国でも、都合の悪い文化や事実をそのたびに根こそぎぶち壊す国とも違います。
理性と教養、そして節度ある民族だからこそ残せた大切な神話や物語、そして古建築を含む日本の文化を大切に引き継いでいかなければと思います。
悲惨な美保関事件
旧官舎で現在はレストランになっている
美保関灯台 石造でとっても素敵なデザイン
室内の造作の洗練さは北前舟で賑わった
時代をほうふつさせます
いつもの朝のランニングです。冬の暗い早朝、美保館を出て12月最後の七日えびすの美保神社をお参りすると、両脇に古い家並みがせまる細い石畳の路地をひた走り御幸通りに左折、その奥の佛谷寺を通過します。このあたりは、大正ロマンただよう異空間です。そして街並みをぬけると磯の香りがしてきます。漁港の防波堤の先端に石灯籠をかたどった小さな灯台が見えてきました。
波消しブロックに寄せる波を横目に、ここからは美保関灯台までかなりキツイ坂道が続きます。坂道は「しおかぜライン」という蛇行する整備された観光道路で、境港や美保湾を見下ろし、そして遠くに大山国立公園の山並みを見る事ができます。
確かにキツイ坂道ですが、カーブするたびに現れる絶景に、挫折することをすっかり忘れて美保関灯台まで走りきりました。
小部屋の内部
次に訪れたのは、参道そばの路地の奥の佛谷寺です。寺伝によるとこれまた興味深いことが多数です。
まずは縁起です。約1200年前(平安時代前期?)に創建された山陰第二の古刹とのことです。第二番目というのも微妙な言い回しです。では第一番に古い寺院はどこなのでしょう。
創建の記録が残っていないだけで信憑性を疑うなんていう野暮は無しですが、第一番目も含め、つい探ってみたくなる悪い癖です。
おそらく第一は、出雲市の鰐淵寺(がくえんじ)です。鰐淵寺の創建は推古天皇時代(592年から628年の36年間)と京都国立博物館の資料に出ていますので、約1400年前飛鳥時代頃ということになります。前回のさまよい紀行で紹介した、「萬福寺」は同じ飛鳥時代594年の創建でしたから、この島根県には古い寺院があったようです。もちろん現在まで継承されている寺院だけでなく、萬福寺のように自然災害で失われて歴史が途切れてしまうこともあったでしょうが、文字で残る縁起や仏像という形で当時の想いが継承されていることもあります。
話がまた脱線してしまいましたが、約1200年前に創建された佛谷寺の仏像の縁起がすごいです。
「昔、海中に三つの怪火が現れ、波風荒れ狂い、住民、航海者は難を極め三火(みほ)と呼んで恐れていた。その頃、行基菩薩この地を巡錫(じゅんしゃく と読むのだそうです 錫杖を持って巡行するの意)し諸人の難を救わんがため、海中の三火を封じて斎戒(さいかい 仏に祈ったり身を清めるの意)精進し彫刻されたと伝えられる霊仏であり、この諸仏を祀るため一堂を建立し、龍海山三明院とされたのが当佛谷寺の開基であります」と寺の案内に書かれていました。
当時の伽藍は戦乱で焼失してしまいますが、縁起の諸仏像は難をのがれ現在まで伝わっています。
境内には、本堂と大日堂(収蔵庫)があります。そして、そのかたわらに八百屋お七の恋人とされる小姓「吉三」の墓がありました。ただし、「八百屋お七」「その相方吉三」の話は、当時の時代背景があいまって創り上げた、事実とは違う物語の可能性が非常に高いものです。信憑性に乏しい情報が独り歩きし、数百年経過しても「ひのえうま信仰」が引き継がれる恐ろしさは、今の時代のネット匿名投稿に近い恐怖を感じます。
話を寺の歴史に戻します。鎌倉時代から室町時代への混乱期、二人の天皇が隠岐の島に流されますが、その時の一時滞在場所になったのが佛谷寺だったようなのです。
後鳥羽上皇は承久の乱で鎌倉幕府に破れ流罪になります。そして後醍醐天皇は元弘の変で同じように鎌倉幕府により流罪とされます。
後鳥羽上皇は島で最後を迎えますが、後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し島根で挙兵します。その勢いで鎌倉幕府が倒れ世の中は一気に室町時代へ、そして南北朝時代、そして戦国時代へと混沌とした時代に入ります。
寺院はその後の戦国時代の尼子、毛利の戦乱で七堂伽藍すべてが焼失してしまい、後醍醐天皇の滞在記録は残されていないということですが、吾妻鏡や太平記などに佛谷寺滞在記録を示す文字が残っているとの事です。
歴史のターニングポイントになったこの地で、のんびりできる幸せを満喫いたしました。
さて、戦国時代の戦火を逃れた仏像を大日堂で見てみましょう。
薬師如来坐像を中心に、正面に向かって左から聖観音菩薩・虚空蔵菩薩・薬師如来の右に日光菩薩・月光菩薩の立像が並びます。
薬師如来は、身体全体が筋肉質で小顔、たくましい胸と組んだ足は青年のようなワイルドな姿に見えます。表情は角ばった面長で、遠くを見据える澄んだ眼と、少し尖がり型の肉髻(にっけい)はパワーに満ちあふれています。
また、脇持はいずれもスレンダーで足の長さが印象的です。全体的にあまり動きがなく真っ直ぐ立っています。
薬師如来と脇持は、いずれも国の重要文化財で平安時代前期の貞観仏です。そしてこれらは山陰最古出雲様式の代表的な仏様だそうです。出雲市の大寺においても出雲様式といわれる仏像を見てきましたが、それでは出雲様式とはどのようなものなのでしょうか。
仙台に住む私は、中央とは違う東北の個性的な仏像をたくさん観てきました。それは、彫刻の技術力や道具の違い、そして仏像の材種によるものです。しかし、それらは、様式として表現できるものではなく、ほとんどの仏像は、その地域風土に根ざした素朴で温かみのあるものです。
それでは、出雲様式とはいかなるものなのでしょうか。私にその様式を分類するすべはありませんが、前回の大寺のパンフレットの仏像や、このたび佛谷寺で撮影を許されて添付いたしましたので、出雲様式を感じ取っていただけたらと思います。
今回の出雲の旅は、中央に属さない山陰地方独特の歴史や文化を感じることができて、充分に堪能させていただきました。
八百屋お七の相方「吉三」の墓
佛谷寺大日堂
ここに貴重な仏像か安置されている
佛谷寺本堂
太古からこのような行為が行われていたのだろうか
見ている私が緊張した
料亭の大広間からは美保湾と大山が見える
話は建築と仏像のさまよい紀行に戻します。
美保神社は、ゑびす神の事代主神(ことしろぬしのかみ)の総本宮として多くの参拝者でにぎわいます。神社の案内によると、前出の天平5年(733)年編纂の出雲風土記に記されるほどの由緒ある神社です。また、境内からは4世紀頃の勾玉の破片や、6世紀後半の雨乞い儀式の遺品が出土していますから、やはり相当古くから熱心な信仰の場所だったと考えられます。祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)です。
妻入りの拝殿の後ろに、二神を祀る大社造りの社が並列する形式で本殿になっています。
大社造りの並列した形式は、同レベルの二神を祀る都合上、横並びにする必要性から発生したものと考えられます。美保神社は、他に類を見ない大社造り2棟並列型として大社造の発展形として成立したものです。二神のレベルの高さゆえに作り出された形式なのでしょう、これを概観の形状から比翼大社造りと呼びます。
朝食はこの奥の大山と港が見える部屋でした
ゴールです 美保神社参道
走ったあとは、美保館に戻り文化財の建物で朝食をいただきます。そして、遠くの大山と海を眺めながらコーヒーブレーク。今回の旅は、いつもとはまったく違う世界を旅しました。
柱時計の振り子がゆっくりゆっくり時を刻むように、時間の流れも空気も、私の思考までものんびり過ぎてゆきました。
小泉八雲記念公園 船宿島屋跡
佛谷寺山門
薬師如来坐像
虚空蔵菩薩立像
佛谷寺境内の石地蔵
仏像の後姿
左から
薬師如来・日光菩薩・月光菩薩
左から
聖観世音菩薩・虚空蔵菩薩・薬師如来
収蔵庫内部(撮影紀行掲載許可済み)
本殿背面
宇豆柱は外周軸線上にあり梁は両棟を兼用している
灯台の灯り
灯台付近には「美保関事件」の経緯を書いた碑もありました。昭和初期指揮命令系統の不手際から起きた海軍訓練の悲劇です。この事件は、その後の日本の行く末を暗示するような出来事だったと感じます。美保関灯台が照らすかなたには、100年前の悲惨な事件が今も眠っています。不都合な真実から目をそらすことなく、過去の歴史に学びより良い社会を作ることが大切だと思い知らされます。
ランニングの折り返し地点は、自分を見つめなおす地点でもありました。
さあ帰路は美保神社まで一気に下りです。
冬の日本海独特の垂れこめた灰色の雲と、雪をいただく大山、そしておだやかな美保湾を眺めながら走ります。白い息を吐き一気に駆け下りると、小泉八雲の宿泊跡を通過します。そしてスタートのときは暗くひっそりしていた美保神社は明るさを取り戻し、12月最後の七日えびすのために忙しく人々が活動を始めていました。
美保神社参道鳥居
44回のさまよい紀行は、山陰のパワースポット美保神社を書きたいと思います。稲佐の浜から出雲大社、そして美保神社へ。高齢者向け観光ツアーのようなパワースポットの旅もいよいよクライマックスです。
美保神社は、島根半島東端の美保湾に突き出た地蔵崎の根元にあります。そして地蔵崎の北に浮かぶ隠岐の島は後醍醐天皇の流刑地です。ここを脱出して鎌倉幕府を滅亡させたくだりはあまりにも有名ですね。そんなことを考えながら、美保関といわれるこの地を散策していると歴史好きとしてはワクワクします。
江戸時代の美保関は、北前船の西回り航路の風待ち港として、出船入船が、1日1000隻と言われほどの賑わいをみせていたそうです。そして船員の宿泊所として、美保神社参道近くに、宿屋を兼ねた廻船問屋が路地を挟んで軒を連ねていました。
路地は、石を敷きつめた青石畳通りとして今も残り、その両側にせまる街割りの風景が当時の面影を忍ばせます。
当時の青石畳通りは、海産物等の荷卸の利便性を考え、海から切り出した青石を通りいっぱいに敷きつめた昔々の「舗装道路」だったそうです。
今夜の宿「美保館」は、青石畳通りの路地にあります。1908年に竣工した老舗割烹旅館で、登録文化財にも指定されている歴史のある建物です。建具や細部の造作のいたるところに贅の跡が残っています。また、平面の部屋割りの奇抜さはもちろん、スキップフロアーを採用して高さ方向の変化も魅せてくれます。ここにいると、今にも階段を上る衣擦れと、お盆の上の徳利の触れる音が聴こえてきそうです。
当時の船旅は今以上に命懸けだったでしょう。波の穏やかな美保湾に停泊ししばしの安息を求めまた出航します。
きっと、雨で濡れた鮮やかに青く光る石畳と、滞在していたときの淡くほろ苦い思い出を胸に、多くの船員が美保関の港を離れて行ったのでしょう。旅はいつの時代もそういうものだと思います。
さて、私も宿に到着すると、さっそく遠くに雪をいだく霊峰大山(だいせん)と、目の前に広がる美保湾を眺めながらのんびりとお風呂に入りました。江戸時代もそれよりも前もずっとこの風景は変わっていないのでしょう。湯船に使って、今日見てきた出雲の寺院や仏像を思い出しながらゆっくりしました。
そして、夕飯前に観光案内を見ながら翌日のランニングコースの選定です。
本殿と拝殿の屋根は複雑に入り組み、雨仕舞いの
難しさを感じさせる
日本建築は、機能性や時代のニーズなどに柔軟に対応した結果、多様な建築様式を生み出します。掘っ立て小屋をベースに神を祀る臨時の仮設建築物ができて、それがしだいに常設化することで建物に実用性と象徴性を求めます。寺院建築は海外からの大きな影響を受けますが、神社は日本独自の発展を遂げます。そのような意味では、神社建築の変遷を見ることで日本人の技術力、そして美意識や宗教観の一端を垣間見ることができるのではないでしょうか。
前回の日御碕(ひのみさき)神社権現造や、前々回の神魂神社境内の貴布祢稲荷両(きふねいなりりょう)神社の二間社流造り、そして今回の比翼大社造りを、日本人の思想変化の流れととらえてながめるのも楽しいものです。
旅にも出られないし、建築や仏像の話をしていた人たちとも疎遠になりました。またいつか、お酒を酌み交わしながら、自由な発想で芸術や文化スポーツの話を楽しくできる時代に早く戻って欲しいと心から願います。
その日の美保神社は七日えびす。荘厳な雰囲気の中、古式にのっとった神事が行われていました。
静かに本殿の背面にまわる神職
拝殿に入る神職
これから厳かな神事が執り行われる
青石畳通りの家並みは当時の栄華を彷彿とさせる
美保神社参道から見る青石畳通り
美保館の内部 二階から
スキップフロアーの小部屋
玄関から当時のロビーの様子
本館の路地側玄関
玄関の欄間と明かりのコントラストが美しい
客を待つ宿屋の玄関先
青石畳通りを挟んで両脇に宿が連なる
当時の路地にひしめく旅館群と美保館
木造文化財建造物の美保館本館