ふもとの薬師堂
本坊 この中に千手観音は収められている
折衷様を示す本堂
本堂 この中に秘仏十一面観音は収められている
温泉寺本堂への登り道
COMMON ROOM


秘仏十一面観音(パンフレットより)
城崎温泉観光ガイドとランニングコース
城崎温泉 温泉街
(ランニングしながらピンボケ撮影)
 国の重要文化財本堂は、外観から典型的な折衷様の様式が見て取れます。大仏様の木鼻や禅宗様の藁座と桟唐戸がとっても印象的です。内部は護摩供養のため天井や梁を含め本堂全体が煤けていて黒光りしているのがわかります。
 境内には、このほかふもとの山門や薬師堂、中腹の本堂、本坊、多宝塔、そして山頂奥の院には大師堂があります。谷間にあるにぎやかな温泉街からすぐそばにあり、山肌に張り付くように伽藍が配置されていました。
 
 なお、城崎(きのさき)の地名の由来は、守護の寺としての温泉寺の観音像が「大和の観音」「鎌倉の観音」と同じ樹木で製作されたといわれ、温泉寺のものが、大和鎌倉よりも木の先の部材で製作されたため「木の先(きのさき)」から城崎と呼ばれるようになったそうです。(温泉寺のパンフより)

  第41回『建築と仏像のさまよい紀行』(城崎温泉)
  
 訪れた寺院
 温泉寺(兵庫県豊岡市)

ふもとの山門
森の中の多宝塔
多宝塔正面
十一面千手観音(パンフレットより)
石川君と温泉寺多宝塔
城崎温泉 一の湯
本堂(大悲殿)
多宝塔側面
 旅の目的である33年に一回ご開帳されている十一面観音は、本堂(大悲殿)の厨子の中に安置されているものです。また隣接する本坊には十一面千手観音があります。その千手観音こそ唐招提寺、葛井寺(第24回さまよい紀行)、寿宝寺(第40回さまよい紀行)の観音像に続く、日本で4体目の千本の手を持つ観音様です。
 
 本堂の秘仏十一面観音は一木の平安仏です。表面のノミ跡がとっても印象的です。顔のノミ跡は繊細で丁寧に仕上ている様子が見られます。他の部分はだいぶ省略し荒削りです。プロポーションは頭がちで太い腕が膝まで到達し、手のひらも大きく感じます。横から拝観すると胸は薄く、そのかわり腰まわりががっちりした印象です。なんとなく木肌の感じからも奈良時代の作風を受け継いだ平安時代初期の作風に感じます。
 
 一方、十一面千手観音は木肌が黒い一木の平安仏です。色彩は材質によるものではなく、護摩炊きの影響で煤けているためだそうです。全体に黒く鈍い光を反射しむしろ神秘的です。ほぼ左右対称形の造型で、広がる1000本(実際には少ない)の腕も極自然に配置され違和感はありません。表情は丸顔ですが威厳に満ちた端整な姿です。衣がまとわりつき浮きあがる両足はそろっています。太ももから足首まで細く真っ直ぐ延び、少し開き気味に立ち上がる姿は、端整な顔立ちとは裏腹に少々素朴さを感じました。
 さて目的の温泉寺は、城崎温泉のすぐ近くで、海と川と山に囲まれた日本の原風景の中に紛れ込んだような場所にひっそりとたたずむ寺院です。谷間にある温泉街から少し歩くと、小川のそばに山門があります。そこからは急な山に階段がずっと先まで続き、山の中腹に貼りつくように本堂と多宝塔がありました。本堂までの急階段はとっても長く体力が必要です。私は一気に駆け上がりましたが、そのかたわらにケーブルカーが設置されていて、それを利用すればあっというまに着くことができますからご安心を。
 志賀直哉の小説「城の崎にて」をご存知の方は多いと思いますが、城の崎(城崎)に行ったことがある人は少ないのではないでしょうか。ましてや、はるばる東北の地からですととても少ないと思います。今回の旅は、実際に千本の手を持つ千手観音と、33年に一度御開帳される十一面観音を拝観するため訪れた城崎温泉の温泉寺の旅です。
 
 旅をした2019年12月はじめは、まだ新型コロナウイルスの存在を知らない時期でした。そんなわけで、兵庫県の日本海側に行くのなら遠回りをしようと、出雲空港を起点に山陰地方200kmをさまよいながら城崎温泉へ、そのあとさらに神戸空港までの途中に姫路城を経由した長旅でした。その3ヵ月後の世界が、とんでもないことになろうとはまったく予想もせず、約400kmののん気な車の旅です。
 
 出雲に寄り道したわけは、一度も見たことのない大社造りの「神魂(かもす)神社」が見たくて欲張ったための2泊3日の弾丸計画でした。移動には大きな負担がかかるのですが、この計画を可能にしてくれたのは、同行してくれた取引先の石川さん(山陰の旅では時々話題になると思います)のドライブテクニックのおかげです。彼はとっても好感の持てるパワフルで誠実な男性で、受け答えや行動は今風の若者とは違い、どこか私が育った昭和の体育会系のノリです。興味がない仏像に対しても、この旅の間中一生懸命理解しようとしていて、むしろ楽しんでくれているように感じました。そんな彼の運転で訪れた出雲から松江、城崎から姫路への長い旅のうち、今回は兵庫県豊岡市の城崎について書きたいと思います。
 
 先ほど話題にした小説「城の崎にて」は、主人公が事故で受けたダメージを城崎温泉で湯治したときの短編小説です。
 湯治中に体験した偶然と必然の生物の死を、自分に置き換えて人間の人生を洞察する様子を小説にしたものです(そんなに浅い話ではありませんが超ザックリの書評)。私も遠くを旅したとき、なんとなくボーっと自分の人生を見つめることがあります。しかし、以前小説を読んだときとは、なんにも感じることはありませんでしたが、今は人生も後半になり、なんだか舞台になった温泉街のわきを流れる小川を見ていると、小説の中に迷い込んだ自分の姿があります。
 無性にもう一度読み返したくなりました。
 
 そんな小説の舞台を歩いたというより、楽しく走りました。温泉街の「一の湯」からオオタニ川(タニは難しい漢字で観光ガイド参照)沿の路地を上流に2kmほど走り折り返し、来た道をたどりながら東山公園を通り円山川までの約10km走った後、「一の湯」に戻り朝湯を楽しみました。
 薄暗い中を走り出したのに、少しずつ夜が明けてくると、そこには志賀直哉の小説の世界が浮かび上がってきました。
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 また、境内の入り口駐車場には、メガホンをぶら下げたなんとも妙な姿の銅像があって、近づいてみると西村佐兵衛銅像と碑がありました。
 何気なく碑の文字を追うと、「1925年(大正14年)5月23日昼前、北但馬に直下型大地震が起こり城崎町湯島地区ではほとんどの家が倒壊し・・  時の町長、西村佐兵衛氏は全焼した我が家を顧みず、ダブダブのオーバーにたすき掛け、袖をまくりあげ、足には大きな地下足袋という珍奇な姿で、メガホン片手に声をからして焼け野を廻り、呆然としている人人を慰め励ましました・・・」日本には昔、居たんですねこのような政治家が・・・。
 職業柄、北但馬地震の事は知っていましたが、銅像と碑を見ることで、その被災地でどのようなことが起きていたのかを知ることができて、大変貴重な体験をいたしました。北但馬地震の少し前には関東大震災や濃尾地震がありましたので、きっとその時代は今と同じように地震が頻発していた時期だったのでしょう。
 
 
 さて、新型コロナウイルスの蔓延で大変なことになりました。今まで建築の業界を襲った危機は多数ありますが今回は強烈です。
 私が事業を始めてからでも、直接的に影響のあった出来事として、バブルの崩壊、リーマンショック、東日本大震災。ほぼ10年に一度の割合で襲いかかる脅威です。その都度必死の思いで対応してきましたが、さすがに今回は先が読めません。
 相当の覚悟が必要だと感じています。過去にも東北の産業を襲った、その業界を揺るがす大事件はたくさんありました。米価の下落、外材の輸入による林業の衰退、200海里漁業制限、捕鯨禁止・・・。もちろん戦時下や戦後に起きた不合理な社会の中、国や地方自治に見離された声なき人々は、その度なんとか自力再生をしてきました。親の跡を継いでなろうとした「建具職」も、質の悪いハウスメーカーに価格や工期で無理強いされ、そして生活環境の変化に飲み込まれ、悲惨な状況になったことは良く覚えています。しだいに木製建具は、物のよさがわからなくなったいわゆる中流階級のニーズによって絶滅危惧種化してしまいました。
 いつの時代も変化に対応できない産業は淘汰されるものです。今回の騒動においても、一人ひとりが覚悟を持って行動し進むことが大切だと思います。
 しかし東北には、いまだにそれすらも許さない現状があります。9年前の東京電力の福島原子力発電所事故により、仕事はおろか故郷まで追われた人たちがたくさんいます。そのことを思えば、多くの事業所が倒産し路頭に迷いすべてを失ったとしても、命だけは守り、現実を受け止め、人を頼らず、もう一度自力で再生するしかないと思います。
 
 今回の新型コロナウイルスの蔓延によって、産業構造も変わるのかもしれませんし、日本の経済活動は息の根を止められてしまうかもしれません。しかし、日本人は、戦後成しえた奇跡的復興を経験しています。
 戦前までの日本人は腹を切る覚悟で生きていました。そこまでは求めないにしても、為政者には西村佐兵衛のような覚悟を持って欲しいです。もはやこの疫病に立ち向かうには私たちもそうとうの覚悟が必要です。きっと日本人には覚悟を持つDNAが残っていると思います。
 
 今こそ、貪欲でしたたかな精神力と、勤勉で思いやりのある私たち日本人の底力を見せ付けるときだと思います。
 
 力強く再生できると信じています。
 頑張ります。頑張りましょう。