蟹満寺の碑
観音寺庫裏諸堂
若草山から平城京方向を望む
若草山から飛鳥地方を望む
南山城の観光パンフレット
寿宝寺観音堂
蟹満寺本堂
蟹満寺の新築された門
COMMON ROOM


 さて観音様に十分に癒していただき、また次の場所へ移動します。次に訪れた南山城の寺は観音寺です。この寺は規模や知名度では奈良市内の古刹からは見劣りするかもしれませんが、東大寺二月堂のお水取りで用いられる松明の軸を供給寺院する、東大寺の非常に古い末寺です。
 平安時代末期、治承寿永の乱が起き南都焼き討ちが行われました。平清盛の命を受けた平重衝は、当時武装した僧をかかえる東大寺興福寺に対し、末寺を含め焼き尽くします(南都焼き討ち)。その結果、巨大な東大寺金堂や大仏など多くの社寺建築や仏像が失われました。
 南都焼き討ちは、京都から奈良になだれ込んだ軍隊ですから南山城は通り道、当然重要な東大寺の末寺であった観音寺も狙われたのでしょう。しかし、本尊の国宝十一面観音(奈良時代)は奇跡的に難を逃れ無事だったのです。
 私は、28回目の紀行文で運慶展後半を取り上げた際、平清盛坐像について書きました。清盛はどのような思いで残虐な行為に至ったのかはわかりませんが、六波羅蜜寺で見た清盛坐像は、いたって物静かで、いかつい武将というよりはむしろインテリでとっても優しい表情に映りました。仏像とはとっても不思議です。

 さて難をのがれた観音寺十一面観音ですが、直接ご覧になられた方は少ないのではないでしょうか。それには理由があって、本堂から外部に持ち出されることがほとんどなく、どのような事情があっても博物館等への貸し出しを行っていないのです。したがって拝観は寺院本堂でのみになっており、わざわざ南山城の地を訪れる必要があるからです。
 十一面観音は奈良時代の木造の仏像です。厨子の扉を開扉していただくと、間近で見上げるように等身大のお姿を拝見できました。以前は黒漆に全身が金箔だったのでしょうが、現在は平滑な素肌の部分は剥落し、衣のひだの隙間に金箔が残っています。ですから、ひだの部分が金箔のグラデーションになってストライプのスカートをまとっているようです。その身体は引締まり、腰のくびれもしっかりとわかります。お顔は童顔で若々しい青年のようです。美しさや艶かしさ、そして少年の表情の純粋さには芸術作品としての魅力と同時にそれをはるかに越えた精神性を感じます。その魅力は写真では伝わらないし、もちろんその精神性を言葉で表せるようなものではありません。それは仏教という宗教において、仏の化身として存在する仏像の神神しさのようなものが与えるものなのかもしれません。

 観音寺を訪れ、御住職のお話をうかがうと、軽々しく仏像の様子を表現するものではないという想いが去来します。しかし、観音寺を離れると芸術作品として見ている卑しい自分を反省しながらも、宗教心に希薄な私は、仏像を人間に置き換えてなんだかんだと勝手な批評をしてしまいます。
 私が勝手に想像しているのですが、仏像を外部に持ち出さない意図は、私のような卑しい目に触れさせたくないという意識なのではないでしょうか。いずれにせよ、奈良時代以降1000年以上の間、ご本尊として大切に受け継がれている十一面観音の前に立つと、身が引締まりちゃんとしなければと思います。
 あらためて法衣で正装され、人数に関係なくいつも誠実に対応なさる御住職の姿にはしびれるような感動をします。もちろん寺外に持ち出され展示された仏像等においても、きちっと信仰の対象としての畏怖の思いをいだき拝観するように心がけなければと、御住職の誠実な対応ぶりに接してあらためて思いました。

 第40回『建築と仏像のさまよい紀行』
(京都南山城の諸寺その2)
 
訪れた寺院
蟹満寺、寿宝寺、観音寺、禅定寺(京都府)

禅定寺茅葺の本堂
禅定寺山門
観音寺
観音寺本堂と庭
寿宝寺門
禅定寺十一面観音(観光案内より)
茅屋根の本堂
 今回の旅でも、すばらしい仏像の数々と、英知を結集した古建築に触れ合うことができて、とても幸せな時間を過ごすことができました。
観音寺十一面観音菩薩(観光案内より)
 さて最後は禅定寺です。写真でご覧の通り茅葺の本堂です。茅屋根の本堂は関西ではなかなかみることができません。東北では岩手正法寺の屋根の葺き替えの際、日本で一番大きな茅葺本堂と紹介されましたが、京都奈良に大きな本堂はたくさんあっても、茅葺屋根がほとんど見られません。
 山奥のひっそりとたたずむ本堂を見ているとどこかなつかしい思いがします。庭もとても手入れが行き届いて清潔感を感じる寺院でした。東北の山奥の一軒家にも似た風景があって、それがなつかしさを醸成するのかもしれません。

 収蔵庫には多くの仏像が見られます。まだ観音寺をはなれて1時間もしないうちに芸術品として見はじめる自分がいます。
寿宝寺十一面千手千眼観音(観光案内より)
釈迦如来坐像(観光案内より)
蛙股の蟹
 次は寿宝寺です。
 今年はねずみ年。ねずみ年の守り本尊は千手観音ですが、はたして手の数は何本あるでしょうか。千本の手を製作し取り付けるの困難なので、通常は後ろに広がる40本の腕と前で印を結ぶ2本の腕の合計42本で製作しています。省略したと思われますが、その本数には仏教にもとづく根拠があって、つまり、1本の腕は25の世界を救うとして40本の腕で1000の世界を救うことになるのです。
 それでは、実際に1000本の腕を持つ千手観音が存在しないのかというと、唐招提寺(奈良)と葛井寺(大阪)、そしてこの寿宝寺に安置されています。ある時先生に寿宝寺に行ったときの話をしたら、ぜひ見たいと言うことになり今回の拝観になりました。
 拝観には事前予約が必要です。たまたまその日は近隣の子供達の運動会と重なったとのことで、限られた短い時間の拝観になりました。時間調整のため、先生には申し訳ないと思いましたが、コンビニおにぎりを窮屈な車内で食べました。実は先生はそのようなことにはまったく無頓着でいてくださっているので、私たちの旅では、移動中の電車内で食べたりレンタカー内で食べたりすることがあります。

 雑談しながら時間を調整して観音堂に入ると、千手観音立像(国重要文化財)が正面に、左右に降三世明王と金剛夜叉明王が控えます。もともと寿宝寺の前身は、飛鳥時代後期に創建された大伽藍寺院でしたが、度重なる災害によって移転を繰り返していたようで、その間に方々の寺社から仏像が集まってきたという事情があるようです。したがって眷属配置がばらばらなのもやむをえません。現在は千本の手を持つ千手観音がご本尊です。
 製作年はわかりませんが平安時代の中期でしょうか。プロポーションは放射状に広がる手の形状に合わせたような丸みを帯びたなで肩で、全体的に肩からつま先に向かってすぼまって逆三角形の印象です。太ももから足首まで規則的に彫られて衣紋の法衣が素肌にまとわりつき、綺麗な足の形状が浮き出ているのがとっても印象的です。
 同じ千本の腕を持つ千手観音として、唐招提寺のおおらかな巨大な姿とも違い、葛井寺の打ち上げ花火のような華やかな坐像とも違う、等身大にスッと立ち違和感なく自然な形で約1000本の手が放射状に配置されています。後ろに広がる手のほかに、合掌する手と禅定印の手と杓丈を持つそれぞれ二本ずつの6本の手が前方にあります。頭上は十一面ですので十一面千手観音で、さらにひとつひとつの手には目が描かれていたので十一面千手千眼観音といわれています。

 今回の拝観のとき千手観音にまつわるイベントがありました。日中の太陽光のもとで見たときと、月明かりによって照らされた観音様の表情の違いを観音堂の扉を開閉することで実験するのです。
 拝観の説明をいただいているときは、観音堂の扉が開いていてまぶしいくらいの光が堂内に差し込んでいましたので、陽の光で映し出された目がしっかり開きこちらを見下ろしていました。しかし、扉を閉め真っ暗になった部屋に小さな明かりを灯すと、目を伏せた慈愛に満ちた表情に変化するのです。この現象は、私が見ても神秘的で幻想的でしたので、きっと当時の人たちは蝋燭や月明かりの中で千手観音の慈愛を充分に感じられたことでしょう。

 なおこの旅の1年後、先生からもうひとつ、つまり日本で4つ目となる千本の手を持つ千手観音が存在するとの情報をいただき、はるばる兵庫県城崎温泉まで旅をすることになりますがその話はまた次回。
寿宝寺本堂
 今回の旅も、あいかわらずの珍道中にふさわしいできごとが沢山ありました。
 度重なる台風襲来の合間をぬってのフライト、宿坊に泊っての朝のお勤め、その日の朝偶然テレビニュースで知った「橿原考古学研究所創立80周年特別展」の予定外の拝観、会話に夢中で行き先を間違えた高速道路、そして降りた山中のインター近くで見つけた不思議な街並みに感動し、飛び込みで入った居酒屋の古いかまどで盛りあがり、そこの女将が勧めるとびっきり美味しい橿原の日本酒で乾杯・・・・。
 思い出したり再訪したら、きっとあったかく、ほろ苦く、せつなくなったり、クスッと笑ったり、ひとりでセンチになったりするのかもしれません。

 尊敬する先生と、京都仁和寺の亀岡末吉からはじまった旅もいよいよ最終日です。
 今回も引き続き、南山城をさまよい出会った仏像を書きます。


 南山城は奈良平城京の出先として1000年以上前からの歴史を有し、日本の将来を決めるようなできごとを見守ってきました。最初に、そんな南山城の相当に古いだろうと思われる蟹満寺を紹介いたします。
 「先生、蟹満寺の脇を通過するのですが行きますか」と聞くと「行かなくてよい」との返事だったので(笑)、この旅では拝観いたしませんでした。行っていないのなら、今回は書かなくてもよいのでしょうが、南山城と奈良との関わりを書く上で、この寺院を無視することはできないので、私が以前行ったときのことを思い出してあえて書くことにしました。

 私が最近蟹満寺に行ったのは、陸奥国分寺回廊復元の資料収集で訪れた2016年(平成28年)です。この年は、33年ぶりの石山寺本尊開帳年だったこともありとても思い出深い旅になりました。そんなせつなくほろ苦い思い出の旅で訪れた蟹満寺本堂は、すでに真新しい姿で「私たち」を迎えてくれました。本堂内部には、ほとんどの空間を占領する勢いの本尊釈迦如来坐像(奈良時代前期国宝)が鎮座します。製造は飛鳥時代にまで遡る可能性を持つ丈六(立ち姿で1丈6尺約5m)の巨大な金銅仏(銅製に金メッキした仏像)です。このような仏像が京都に今もあることには驚きです。

 ここ蟹満寺は寺名に「蟹」が付く不思議なお寺ですが、縁起をひも解くと、敬虔な観音信仰の娘が蟹を助け、父親が適当な約束をしたため起きた娘の危機を、観音様と以前娘が助けた蟹に助けられるという「蟹の恩返し」物語がはじまりだそうです。したがって、もともとの起源が観音寺だったため、巨大な金銅釈迦仏は他の大寺院から移設されたものと考えられていました。しかし、このたびの本堂の改築にともない行われた発掘調査により、地中から飛鳥時代後期の巨大な寺院跡が発見され、現在の釈迦如来坐像は創建当初からこの地にあったものだろうとする説が有力になりました。つまり、坐像は奈良時代前期か、それ以前に製作された可能性があるというのです。そして、この南山城が飛鳥時代から奈良時代前期には、すでに重要な地であったことがわかったのです。今では山と川に囲まれたのどかな地ですが、1300年前の南山城はどのような風景が広がっていたのでしょうか。

 古代の大型金銅仏で思い浮かぶのは、時代順に飛鳥寺飛鳥大仏(安居院釈迦如来坐像)、山田寺仏頭(現興福寺)、薬師寺薬師如来坐像、そして蟹満寺釈迦如来坐像があります。飛鳥時代の日本には金銅仏の製造工法がありませんでしたから、当初は大陸から派遣された止利仏師により製作されていました。しかし、時代が新しくなると仏像の表情や姿の変化でわかる通り、大陸的で神秘的な姿から、日本人の感性に合った、日本人好みの姿に変化しているような気がします。
 蟹満寺の釈迦如来像は、頬が張り、眉が円弧を描き目元は切れ長で、口元は引締まりへの字を結ぶ厳しい表情です。体躯は生身の人間の体つきに似て逆三角形のムキムキマンでスポーツジムに居そうな男性像です。その姿は、険しい威厳の表情と、外敵から私たちを守ってくれるような力強いプロポーションによって、身体全体からほとばしる人間的で慈愛と安心感をもたらす姿に感じます。きっと情け深い親子の物語が映し出された仏像なのでしょう。
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 さて、ちまたでは新型ウイルスで大混乱しています。もちろんここ仙台も例外ではありません。しかし9年前東日本大震災の時も同じような気持ちになりました。放射能の問題や津波で壊滅した街をながめ、先行きの見えない長いトンネルにいた自分を思い出します。いつの時代も歴史に学び、しっかりとリーダーシップをとって会社経営をやっていかなければならないと思います。

 「死の淵を見た男(門田隆将著)」を原作とした「フクシマ50」の試写会に行ってきました。日本国民は、私たちが受けたあのときの恐怖を知ろうともせず、原発事故を一生懸命忘れようとしているような気がしていましたが、門田さんの作品やこの映画によって、本当にあったことに目を背けず、もう一度現実を確認するチャンスを与えてくれたと思います。
 本当のリーダーとはどのような人間なのか、新型ウイルスでふわふわした現在を牽引してくれる人は誰なのか、いろんな人の発言を聞いていると考えさせられます。

 私は会社を守るために、再び暗闇のトンネルを突っ走ります。ヨロシク
 

 また3月11日がきます。合掌