COMMON ROOM


瓦屋根を見下ろす(焼夷弾が貫通した)
入り口側外壁
内部 木造階段
1階床下


損傷は激しいが装飾にこだわりが
感じられる。
床下換気口

金網の形状や引き戸の取っ手にま
でこだわりが感じられる。
外壁の露出した鉄筋

丸鋼が腐食し断面が欠損されている。
スペーサーやセパレータ、そして
足場の掛け方など、当時の工事は
どのようなものだったのだろう。
小屋組

コンクリート製内壁や木造梁に焼
夷弾により被弾したあとが残る。
小屋組

曲がった梁を配置しているが、小
屋組だけを見ると木造の建物のよ
うに見える。

今までは、木造建築を中心に「さまよい紀行」を書いてきましたが、第4回は、東京大学名誉教授内田祥哉先生のご紹介で、10月21日に見せていただいた「樹林館RC造蔵」について書きます。

調査見学は、所有者でもある東京理科大学名誉教授沖塩荘一郎先生と、東京大学名誉教授坂本功先生にご参加いただきました。
建物を見る前に、沖塩先生から資料をいただき(PDFにて添付)建物の概要説明と興味深い歴史的な背景をうかがいました。

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樹林館RC造蔵の外観

蔵の概要
構造体は、建築物に鉄筋コンクリート構造を採用した初期の遺構です。鉄筋コンクリート部分は基礎とリブ柱を含む外壁で、屋根及び床組みはすべて木造でできていました。
1階の床は、束石の上に床束を配し、従来の木造の構造と同じ仕様で、大引き根太により床組ができていました。2階床についても同様で、木造の梁の端部をコンクリートの壁が支持し、その梁に根太を掛けていました。残念ながら、梁の端部がコンクリートまたは漆喰の中に食い込み隠れているため、仕口の状況や、打ち継の状況を確認することができませんでした(当時の施工手順をご存知の方は目視でも確認できたのかもしれません)。
これは、土蔵の外壁を、最先端技術の鉄筋コンクリートに代える、非常に挑戦的な建物だったと考えられます。

建物の中に入ると、建物の細部にまで細やかな仕上げが施されており、工事従事者の真面目さが伝わってきました。いたるところに職人の粋がちりばめられ、当時、建築の最先端を担っているという責任感と誇りが伝わってきました。

また、鉄筋の組み立て・型枠の製作・コンクリートの調合や流し込みなどの工事過程で、経験が乏しく道具のない時代に、どのような手順で施工が行われたかを想像するだけでも、この建物に対する興味は尽きません。

はたして、大正7年頃の建設である本建物は、誰の手で設計されたのでしょうか。
日本で最初の鉄筋コンクリート集合住宅は、大正5年に、外国人によって設計された軍艦島の住宅だといわれています。
また、佐野利器が、耐震論の基礎である「家屋耐震構造論」を発表した時期が、大正4年であった時代背景を考えると、「樹林館RC造蔵」がとても興味深く感じられます。

この時期はおそらく日本の鉄筋コンクリート建物にとって非常に重要な時期だったのではないでしょうか。

関東大震災(大正12年)の際、建設場所のいわゆる山の手においては、比較的硬質な地盤であったため、木造建物の被害が少なく、その反面、土蔵などの短周期の固有周期を持つ建物に、被害が多かったと言われています。しかし、土蔵の代替としてコンクリートによって作られた「樹林館RC造蔵」は、その震災にも耐え、さらに、一般市民を標的にした焼夷弾による無差別爆撃にも耐えてきた意味は非常に重要だと考えます。



「樹林館RC造蔵」は、そのような貴重な建物であるにもかかわらず、沖塩先生のお話では、近々に解体されるそうです。
当時、まだ鉄筋コンクリートが珍しい時代において、鉄筋コンクリート構造の先駆けの作品として、ぜひ後世へ残していただきたいと考え、急遽「さまよい紀行」に採り上げることにしました。

今回の見学はとても貴重な経験でした。あまりにも便利になりすぎた時代です。構造解析はコンピューターに任せっきりで、基本的な事を忘れてしまっているような気がして、この建物が大切な事を思い出させてくれました。
工夫することを忘れ、工期に追われ、ただ漫然と仕事してないか、そんなことを自問しながら建物を見させていただきました。

最後に、鉄筋コンクリートに関わる技術者のモニュメントとして「樹林館RC造蔵」を保存していただきたいと、本建物の調査を通して強く感じました。

なお、沖塩先生からいただいた、樹林館RC造蔵の歴史についての資料を添付いたしますのでご覧ください。

第4回『建築と仏像のさまよい紀行』 

駒込樹林館RC造蔵

所在地  東京都豊島区駒込

建物概要 鉄筋コンクリート壁式二階建て・床屋根は木造

建立時期 1918年(大正7年)頃

出入り口開口

漆喰を仕上げに使い、土蔵の蔵を
思わせる仕上がりになっている。