本堂の木鼻
本堂柱のちまき
本堂のしとみ戸
本堂の正面
神童寺伽藍を後方より撮影
神童寺参道
海住山寺国宝五重塔
文殊堂側面
文殊堂蛙股
先ほども書きましたが、神童寺も海住山寺も交通の便は良いとは言えません。しかし、静かな森の中にうずもれるようにたたずむ境内に立つと、長い年月をじっと耐え忍んできた歴史を感じます。そして、この地で、木々の持つ神聖で優しい息づかいに耳を澄ますと、訪れた者を、厳かな深い愛情で包み込む包容力を感じます。ぜひお薦めしたい京都の風景です。
次回は、引き続き南山城の旅を書きます。
海住山寺重要文化財文殊堂
解体修理竣工図 もこしの納まりが興味深い
(パンフレットより)
最初に国宝五重塔のことを書きましたが、文殊堂や、貴重な仏像がたくさんあります。ただ残念なことに、奈良国立博物館に寄託しているものが多く、ここでは見ることはできませんでした(博物館では何度か拝見しています)。
重要文化財の文殊堂は、正面が三間,妻面が二間の寄棟銅版葺きのこじんまりした鎌倉時代の建物です。特に外周を飾る蛙股が美しい。シンプルで、まだ素朴さの残るデザインには力強さがあり、施工技術者のプライドが漂います。
五重塔の屋根逓減と垂木
海住山寺の裳階有無比べ(パンフレットより)
安楽寺三重塔裳階
室生寺五重塔
海住山寺国宝五重塔
次は海住山寺(かいじゅうせんじ)に移動します。
この地も山奥ですがもちろん車で境内のそばまで上れます。しかし、そこまでの道のりは狭く、急勾配の山道を運転することになるので注意が必要です。最近は緊急用の道路ができたので以前よりは楽になりましたが、勾配は変わりませんので、慎重に運転して境内近くの駐車場に停めます。
本尊蔵王権現と波切白不動尊
(パンフレットより)
鐘楼
さて、さらに山を登ると、外で行う護摩法要の場所が現れます。ここで行われるお炊き上げと、火渡りの儀式は密教独特の修行です。今回は修行の様子を拝見できませんでしたが、おそらく山あい行われる儀式を見たら、宗教の神秘性に魅了されることでしょう。
現在の本堂(国重要文化財)は室町時代の再建です。正面は3間の寄棟造りで屋根は瓦葺の落ち着いたたたずまいを見せてくれます。
格子の引き違い開口と、蔀戸(しとみど)の和様を基本としたデザインですが、大仏様の繰型付きの木鼻、禅宗様の柱頭で絞った粽(ちまき)、そして正面は菱形の欄間が印象的な折衷様の建物になっています。
しかし、雨ざらしの露出した外部柱の劣化が著しく、痛々しくさえ感じます。いろいろなところで古建築を見学することがありますが、規模やその文化財の価値に拠らず、劣化の激しい部材を見ることがあります。そして所有者の嘆きを聞くことがありますが、補修費用を捻出することは現代では難しいことだと感じます。早めの修復ができれば良いのですが・・・。
海住山寺の塔は、鎌倉時代に建てられた唯一の五重塔だそうです。一時期、裳階が無い時代がありましたが、最近の改修によって裳階があったことがわかり、裳階付きの形式に復元されました(創建当初は無かったとも言われる)。裳階の柱は、縁側の束をそのまま伸ばしたような形で、壁がないので吹きさらしになっています。柱の頂部は、舟肘木ですっきりとまとまっており、着物姿の細身の女性のような立ち姿です。
たとえば、同じ裳階を持つ法隆寺のように、裳階に外壁があるため下層がでっぷりした印象の立ち姿とは違います。
もし裳階がなかったらを想像するとき、無い時代の写真がありますのでその様子と見比べるのもおもしろいと思います。屋根の先に付く柱が現在のように縁側の外側にあって、さらに裳階がないため、一層目の階高が高く見えるせいか間延びしています。そんなことを考えながら眺めていると、現在の形のほうがずっとしっくりきます。
さらにさらに軒の出を構成する組物にも特徴があって、多くの塔では三手先で組んでいますが、ここでは二手先です。そのため、屋根の付け根がごじゃごじゃしていないので、優雅な羽根のように華やかに見えます。構造力学的には三手先のほうが丈夫なのでしょうが、尾垂木やハネギを駆使して屋根を支えているのでしょう。
先生と二人で
山ふところにいだかれるようにたたずむ海住山寺の歴史は古く、奈良時代まで遡ります。聖武天皇の勅願によって良弁が開基した観音寺に因るといわれます。その後、伽藍のすべてが焼失し、鎌倉時代に再興し「海住山寺」と改名して現在の独特の伽藍が完成します。現在の本堂、五重塔、文殊堂の配置は、鎌倉時代のままですから、喧騒から隔絶された、深い森に囲まれた境内に立つと、あたかもその時代にタイムスリップしたような気分になります。
さて、車を停めて少し歩くと、国宝五重塔(鎌倉時代)の相輪が見えてきます。実はこの塔の高さは17.7mととっても低く、室生寺の塔(高さ16.1m)に次いで低い塔(屋外の)なのです。
神童寺本堂
護摩法要の場所
レトロな消火設備
街道沿いの民家
神童寺からみおろす街道
薬師寺西塔の裳階
法隆寺五重塔裳階
天弓愛染明王(パンフレットより)
さらにその奥は、コンクリートでできた収蔵庫があります。内部には、個性的で美しくすばらしい仏像が数多く残されています。
平安時代前期から後期にかけて造られた日光月光菩薩、毘沙門天像、そして、定朝様のお手本のような阿弥陀如来坐像などは、いずれも重要文化財です。それらがところせましと収蔵庫に配置されています。そして圧巻なのは平安後期の波切白不動尊や天弓愛染明王です。(いずれも重要文化財)
波切白不動尊は、普段見る不動明王とは違い、左肩にかかるおさげはなく、裳は腰巻のように装い両膝までたくし上げ、上半身は幼児体型の素っ裸です。まるで巻き毛のヤンチャ坊主の立ち姿です。光背は、火炎ではなく葉っぱのようなシンプルな形状でとても珍しいものです。波切白不動尊の形式は、円珍の黄不動で有名な三井寺絹本黄不動に共通するものです。
東京の目白や目黒が不動明王の五色不動からきていることは知っていましたが、白に着色された不動明王が、実際に仏像として存在することには驚きです。絵巻から飛び出した目の前の白不動、その存在感には圧倒されました。
また天弓愛染明王も珍しい形式の仏像です。あからさまに天井に向けた弓矢の射るものは、星の光です。
金剛峰楼閣一切ゆがゆぎ経の「星の光を射るが如き」が由来だそうです。愛欲の仏様でもあることだし、せっかくだから、遠く離れた西洋のキューピットと親戚関係だったら夢がある話だと思いますが・・・いかがでしょうか。
第39回『建築と仏像のさまよい紀行』(神童寺 海住山寺)
訪れた寺院
神童寺(京都府)
海住山寺(京都府)
裳階と舟肘木
層部の縁側
木々に囲まれた文殊堂
山の中の海住山寺伽藍(パンフレットより)
南山城の仏像(パンフレットより)
今回の「さまよい」も、前回に引き続き先生との二人旅で訪れた旅先のできごとを、つれづれに書きたいと思いますのでお付き合いください。
ワークショップで訪れた奈良県南の當麻寺から、一気に京都南山城へ北上します。
南山城は今でこそ京都府ですが、奈良時代は律令制の行政区分で山背国として奈良大和の国の出先でした。ですから、平安京以前は京都盆地の中心都市としておおいに栄えていました。さらに恭仁京(木津川市)として平城京を一時的に遷都する計画まであったといわれます。
そして、平城京は平安京へ遷都する前に、短期間ではありますが長岡京に都を移しました。この段階でも、まだ現在の京都中心部は歴史上の舞台にはでてきません。そのような歴史的な背景を考えると、南山城は京都のルーツ的地域だったのかもしれません。
今回と次の回のさまよい紀行は、そのような歴史的に非常に興味深い地域であるとともに、京都市内の喧騒から離れ、落ち着いたたたずまいの京都南山城を旅します。
今回は神童寺と海住山寺の旅日記です。
南山城は京都市や奈良市から離れていているうえ、寺院が点在しているため、訪れる人もまばらな印象があります。
しかし南山城には、神童寺(じんどうじ)や海住山寺(かいじゅうせんじ)のほかにも、次回訪れる観音寺、寿宝寺、禅定寺、蟹満寺など、いずれも奈良平安時代の個性的で魅力的な仏像に会わせてくれます。
室生寺も海住山寺もとても素敵な寺院ですが、いずれも交通の便に難があって訪れる機会が少ないとは思います。ですが、ぜひ一度は拝観してほしい二つの五重塔です。もちろん別に低いからどう?ってことはありませんが、塔の間近で見上げても、コンパクトなので下から上までのすべてを自分の視野の中に入れることができます。それは、全容と詳細が同時に見ることができるので、五重塔の持つ特徴を一瞬に感じさせてくれることになります。
全体の絶妙な逓減率と複雑な組物を同時に目視していると、日本人ならではの感性かもしれませんが、デカく作ってびっくりさせるのではなく、程よいつつましさを持ってたたずむ、そんな和の美しさを存分に感じさせてくれるのではないでしょうか。
この塔の特徴は、六重にみえる最下層の裳階(もこし)と濡れ縁があることでしょう。裳階を持つ塔は、現在では法隆寺、薬師寺、安楽寺(長野を題材にした16回さまよい紀行参照)、そしてこの海住山寺だけだと思います。いずれの建物も、この裳階によって外観のイメージがずいぶん変わります。さらに1階に縁側があると、より日本住宅の感じに近づき洗練された和のデザインに感じます。
五重塔の発生はお墓の土饅頭ストーバだといわれますが、土からにょっきりと生え出したというよりは、土とは隔絶された人工工作物を強く印象付けます。
神童寺
最初に訪れた神童寺の場所は、京都府木津川市の東側に位置します。この地は、古くは京都からお伊勢参りに行くための伊賀街道の門前にあたり、桜峠という山越えの京都側の山肌に境内があります。その周辺は古い街並みが残る伊賀街道の名残があって、ゆっくりのんびり散策するのも素敵なところです。
山間で狭い街道沿いに参道があり、車を停める場所はありませんが、広めの場所を探して停めさせていただいて拝観します。
参道の入り口はすぐに石段になっていて、ゆっくり上ると国の重要文化財の本堂が山の中腹に見えてきます。
創建は聖徳太子の時代に遡り、その後、役行者が修行場とし、この地に蔵王堂を建設し寺号を改め神童寺と名づけます。
役行者の修行場のあとは、興福寺の庇護の元に衰退隆盛を繰り返していたようですが、平安時代末期の平家による焼き討ちで焼失したという記録が残っています。
江戸時代の境内図を見ると、たいへん大きな伽藍の寺院だったようですが、現在は本堂を中心とした庫裏や鐘楼などの諸堂を残すのみとなっています。