第38回『建築と仏像のさまよい紀行』(當麻寺)
訪れた寺院
當麻寺(奈良県)
當麻寺 国宝西塔
當麻寺仁王門
今回の「さまよい」も、前回に引き続き先生との二人旅で訪れた旅先のできごとを、つれづれに書きたいと思いますのでお付き合いください。
とは言うものの、前回書いてからすでに4ヶ月が経過してしました。その間、仕事でもプライベートでもいろいろなことがありまして、振り返る時間も許されず激動の一年間が過ぎてしまった気がします。
年が明けて、心機一転突っ走りたいと思いますので、「構造計画」をよろしくお願いたします。
さて、奈良盆地の東山裾を奈良市から柳生街道、山辺の道、多武峰街道と古道を進み、今度は桜井から八木、高田へと東西の道を西へと車で走らせました。二人旅の行き先は、今回の旅の最大の目的地である當麻寺です。
當麻寺は大阪との県境にある二上山の麓に伽藍をもつとても古い寺院です。最近では仁王像「あ形」の口にミツバチが巣を作り話題になりました。
なかなか粋なところに住まいを求めたものです。像が痛まなければよいのですが・・・。
仁王像ん形
仁王像あ形
(開いた口をミツバチは住かにしたのでしょうか)
當麻か当麻か、なんだか不思議な響きの寺院名ですが、この地を治めていた豪族當麻氏に由来するそうです。駅名表示では当麻駅がありますが、寺院名や地区名表示など圧倒的に「當麻」の文字が見られますので、ここでは當麻で統一して書きます。
當麻寺については、すでに11回目のさまよい紀行で、「練供養会式」や金堂に安置されている白鳳時代の弥勒菩薩(国宝)、そしてその四隅を守護する四天王立像(持国天が東京国立博物館に特別展で2月初旬まで展示中)について書きましたので、今回は西塔解体修理のワークショップの話を交え、建造物を中心に書きたいと思います。
練供養式会
練供養式会
練供養式会
練供養の準備が整った本堂
當麻寺の案内によると、「もとは聖徳太子の弟、麻呂子親王が612年に河内国につくられた禅林寺681年に役行者開創の当地に移されたものと伝えられる。白鳳時代から天平時代かけて金堂、講堂や東西両塔などの伽藍が完成されたと見られ・・・」という由緒のある寺院です。
現在の伽藍は、天平時代の内陣を持つ本堂(国宝)、鎌倉時代の金堂(重文)、奈良時代後期から平安時代前期の東西の三重塔(国宝)が残されています。
その配置はとても不思議で、金堂や講堂の配置は現在の仁王門とはまったく無関係に配置されています。
當麻寺の伽藍
(講堂金堂の線上には門が無い 左側の建物は本堂)
中央に見えるのが講堂と金堂
偶然虹が架かってる
日本最古の石灯籠 講堂金堂の線上にある(白鳳時代)
当麻寺薬師堂
(敷地からはなれたところにポツンとある)
古代寺院の伽藍は、左右対称や非対称、回廊の配置や建物の数の違いなどバラエティに富んだ配置計画が見られます。塔を持つ現存する建物では、左右対称の配置の例として薬師寺や四天王寺が代表でしょうか。また非対称系の例としては、法隆寺が有名です。
日本に仏教をもたらせた大陸の国々の伽藍は左右対称だと聞きます。したがって伝来した当初の寺院伽藍は、たとえば飛鳥寺や山田寺、そして百済大寺は遺跡の発掘により左右対称系であることがわかっています。
しかし、その後、国内で建設された建物の中には法隆寺に代表されるような非対称伽藍がたくさん生まれます。川原寺や法起寺、そして我らが多賀城廃寺は、遺跡の発掘によって法隆寺のように金堂と塔が横並びに配置される非対称であったことがわかっています。
法起寺遠景
法起寺遠景
法起寺三重塔
(柱の間隔が上方ほど急激に狭くなり最上階は柱が少なくなる)
法隆寺五重塔
(中央の柱の間隔が広い 最上階は柱が少なくなる)
しかし、當麻寺の伽藍は入り口を仁王門だとすると中心軸に対して、直角に入山することになります。
また二つの塔は、小高い山(丘)の中腹に、木々に溶け込むように配置されています。
東塔遠景
西塔遠景
改修中の西塔より東塔を望む
うっそうと茂る木々に囲まれた東塔
塔はサンスクリット語のストーパ(卒塔婆の語源)が変化したものと言われ、仏舎利塔にあたります。古代の伽藍では、塔は中心に配置し1基でしたが、その後左右対称形に2基配置する伽藍が現れます。
2基の塔としては、遺構調査により東大寺や西大寺が知られていますが、現存する寺院としては、昭和の西塔再建(宮大工西岡棟梁により再建)によって美しい姿を今に伝える薬師寺が有名です。
(現在、白鳳時代の東塔は約10年の解体修復によって来年落慶法要がおこなわれます)
しかし、双塔として創建当時のまま残されているのは當麻寺だけです。
一般的な伽藍は南北軸を中心に配置され、その入り口を中心軸に配置しますが、當麻寺は西に二上山をいただき、その裾野を「竹内街道」という古道が通り當麻寺の伽藍の南側を通過します。二上山は、飛鳥時代には太陽が沈む山として信仰の対象になっていました。
竹内街道は古道「山辺の道」に匹敵する日本で初めての国道として、飛鳥時代の物流の大動脈だったといわれます。おそらく竹内街道は、大阪難波宮から飛鳥宮への幹線道路だったので、大陸との貿易拠点であった難波宮からたくさんの異文化が輸入され、飛鳥宮や藤原宮に運ばれたに違いありません。そのような意味でも、山を越え、大阪から奈良へ入った入り口の當麻寺は、重要な場所だったのでしょう。変則的な伽藍の配置計画は、当時の特殊事情によってもたらされたのかもしれませんが、タイムスリップして当時の伽藍から竹内街道を行き来しただろう異国との文化交流の一端を覗き見したいものです。
現在の金堂講堂の軸上には入り口の中門がありません。冒頭に書いた、ミツバチが巣を作った仁王像は現在のメイン入り口ですが、金堂と講堂への動線とはまったく無関係に配置されています。
當麻寺の立地は傾斜をともなう丘陵地で、当時としてはアプローチを含め伽藍に不自然さがみられます。敷地は木々に覆われ、創建当時の様子をうかがうことはできませんが、回廊の存在も含め謎を解き明かして欲しいものです。
現在、山の傾斜地に立つ東西の三重塔のうち西塔が現在解体修理中です。
その解体修理中の西塔のワークショップに先生と参加いたしました。
西塔改修工事前
西塔 改修工事中の素屋根
西の三重塔は平安時代前期(9世紀後半)の竣工と考えられております。本瓦葺で四面を4本の柱(三間)で三層を構成しています。初層(1層目)の大きさは5.3m×5.3の正方形で礎石から相輪の頂上までの高さは24mぐらいです。
東西の塔は建設時期が多少(50年くらい?)違いますが、見た目はだいぶ違います。どっしりした構えの東の塔にたいし、すうっと建つ西の塔は洗練された感じがします。
東塔は西塔とは竣工時期が早いせいか古風な感じがします。中央の柱間隔が広めで、さらに2層目と3層目が柱3本(二間)に減数する(法隆寺や法起寺など古い塔にみられます)など下層に重心を感じます。そのことが東塔のどっしり感を生み出しているのかもしれません。
その後造られた西塔は、東塔と同一敷地に内に建っているにもかかわらず、統制の取れた層毎のリズム感があり洗練された感じを受けます。当時の工事担当者はどのような思いで設計したのでしょうか。
西塔では、軒の組物もずいぶん変化しています。1層目の出隅の片持ち屋根を支える肘木には、ハネギの様な部材が仕込まれて強度の改善がみられます。
東塔の一層目の組物
東塔の別角度の一層目
西塔1層組物
(二手先に付く梁はハネギのような仕組みになっている)
西塔2層組物
(1層目とは違うが二手先にハネギのような仕組みが見える)
西塔3層組物
西塔屋根コーナーの鬼斗
斗のカーブが美しい
東塔 柱4本3間ですが外側の間隔と中央の間隔が大きく違うことが組物の配置でわかる
東塔の柱は古風なエンタシス形状に見える
東塔
中央の開口部が広がっている
東塔の出隅
西塔改修中の組物
西塔改修中の組物
西塔を組物を見上げる
(1層目と2層目の組物が違う)
西塔の美しい相輪は九輪ではなく8輪(東塔も同様)
今回の改修は、明治から大正時代に行われた解体修理から100年以上が経過し、痛みが進んだ屋根瓦と地盤や基壇の補強が行われています。改修工事の完了は2021年を予定していますので、まもなく美しい東西がそろった双塔を私たちに見せてくれると思います。
なお西塔の瓦は、総数が16000枚で、そのほとんどが大正時代のものに改修されていましたが、一部平安時代や室町時代のものがあり、さらに境内の金堂や講堂などの瓦も使われていたようです。すべて大正時代の新しいものに交換してしまっても良かったと思いますが、古材を大切に使う思いが伝わり、あったかい気持ちにさせてくれます。
また相輪は通常9輪でできていますが、東塔西塔ともに8輪です。西塔の相輪の最上部水煙は、創建当時のもののようで鋳造で、美しい連蕾と忍冬紋の文様で飾られています。
今回の改修では、すでにプレス発表でご存知かもしれませんが、飛鳥時代までさかのぼる舎利容器が発見されました。
竹内街道を行き来したであろう当時の人や、渡来人の姿を想像するたび「建築っていいなぁ」ってあらためて思います。
余談ですが、昨年(令和元年)の秋、仙台で日本酒の飲み歩きイベントがありました。私は、その中に奈良のお神酒を飲ませてくれる店をみつけ入りました。その酒こそ香芝の二上山麓にある大倉本家の濁酒です。春仕込と秋仕込のお酒を飲み比べる機会を得て、奈良の神社のお神酒を作っている会社の社長みずから解説をいただき、その古き製法による濁酒に酔いながら、とて
も貴重な体験をいたしました。
次回は、當麻寺のあとに先生と訪れた、京都南山城の旅を書きたいと思います。
改修中の心柱先端
(改修により宝珠や水煙が取り外されている)
礎石の上の内部の柱
砲弾型さつ管
さつ管と宝輪
竜車
宝珠
本堂や他の建物のからの再利用瓦
左側の茶色の瓦は白鳳時代の可能性
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