長岳寺旧地蔵院玄関 
こじんまりした玄関ですが細かな
造作が美しい
長岳寺旧地蔵院(重要文化財)
長岳寺御朱印2種
地蔵院の数奇屋風の庇 藁目が美しい
旧地蔵院内部
旧地蔵院の玄関 
書院造りの形式をとる 欄間が美しい
長岳寺鐘楼門 (重要文化財)
長岳寺本堂 
この中に阿弥陀三尊が安置されている
0宇治上神社拝殿すがる破風屋根(参考)
割り拝殿の縁側と板戸
割り拝殿の妻面板戸
摂社出雲武雄神社拝殿3
摂社出雲武雄神社拝殿4
摂社出雲武雄神社拝殿2
摂社出雲武雄神社拝殿1
京都宇治上神社 美しい拝殿です(参考)
割り拝殿の引き違い格子戸
割り拝殿蛙股
石上神宮拝殿藁座と貫 吊るし燈籠
石上神宮拝殿
石上神宮楼門
石上神宮御朱印2種
石上神宮社務所
石上神宮拝殿蛙股
COMMON ROOM


 さて、石上神宮を離れ、山辺の道をさらに南下すると長岳寺に着きます。
 第27回さまよい紀行で、東京国立博物館で行われた「運慶展」に展示された長岳寺阿弥陀三尊像を書きましたが、今回はあらためて本堂に安置された本来の三尊の姿をご紹介いたします。
 長岳寺の仏像といえば初めて玉眼を用いた仏像として有名です。それはいわば慶派の先駆け的な存在だと思います。その風貌や表情は平安仏のそれとはあきらかに一線を画します。
 
 平安時代末期の阿弥陀如来といえば、定朝様に代表される形式美を重んじる姿をイメージします。定朝の如来は、身体は薄く脱力し半眼の表情は、修行し達観し悟りを開いた姿を表現しているのだと思います。しかし、不謹慎ながら凡人の私には、置物のように覇気が無くやる気の無い姿に映ります。
 ところが、同時代の長岳寺阿弥陀三尊像の姿は、身体の線は艶かしく、玉眼の目は生き生きして体温を持つ人間のようです。いささかオーバーかもしれませんが、その時代にして新しい仏像表現方法へ一歩踏み出した、そんな記念碑的な作品のように感じます。その一方で、中宮寺の弥勒菩薩や、薬師寺の聖観音菩薩のような、大陸の香りの残る飛鳥奈良時代の古典的な仏像の姿を残しています。
 この作者は、仏像製作において縛りのきつそうなこの時代にいながら、強烈なチャレンジャーだと感じます。
 
 三尊は阿弥陀如来と脇侍の勢至菩薩と観音菩薩で構成されています。両脇侍は片足踏み下げた半跏像で、木造仏ですが、その姿と肌の光沢感から奈良時代の金銅仏をほうふつさせます。初めて玉眼を見た人々は驚いたに違いありません。三尊それぞれが違った表情を見せ穏やかな目もあれば「キッ」と見据える目もあります。とっても神秘的で、じっとみていると心の奥底をのぞかれているような怖さを感じました。
 薄暗い本堂のなかに浮かび上がる阿弥陀如来のシルエットは、定朝様の体型ですが、表情は厳しく威厳に満ちた仏像です。本尊がまとう袈裟は落ち着き、その衣紋はやわらかで穏やです。しかし脇侍の裳は大胆で透け透けの薄羽衣のようです。そのため、菩薩のボディーラインのあらわになった姿はイケイケファッションです。薄絹を通してあらわになった妖艶な二の腕とすらりと伸びた躍動感に満ちた細い足は、人間の健康美を表現しているようです。
 仏像を通して、貴族社会から武家社会への社会変化の様子を感じます。それは一般庶民がそれらの変化を受け入れていった姿なのではないでしょうか。
 
 博物館では長岳寺の三尊を間近で見ることができましたが、本来あるべき場所で見る仏像は、展示会とはまったく違う、神聖で魂の入った凄味を感じます。
談山神社十三重の塔2
談山神社御朱印
談山神社総門

  第37回『建築と仏像のさまよい紀行』(石上神宮、長岳寺,談山神社)
  
 山辺の道の後半
 訪れた寺院
 石上(いそのかみ)神宮
 長岳寺
 談山(たんざん)神社

 今回のさまよい紀行は、山辺の道にそって石上神宮・長岳寺、そしてさらに南下し多武峰街道の談山神社を歩きます。
 
 白毫寺から山辺の道を南下すると石上神宮がありますが、その道すがら変わった呼び名の街があります。山辺の道同様奈良市から桜井を通るJR桜井線は、奈良駅を発つと京終(きょうばて)帯解(おびとけ)櫟本(いちもと)そして天理へと続きます。なじみの無い難解な町の名前の連続ですが、そのような町の名前を目にするだけでもワクワクします。そして天理市の東に位置するのが石上神宮です。このあたりは東側に山をいだき西側には広大な奈良盆地が広がります。
 太古の日本は、山や川、そして石や木などに神が宿り人々はそこに精神のよりどころをみつけていました。当時の信仰は、自然そのものを崇拝していたため神殿がないことが多かったようです。そんな祈りの姿が仏教伝来する以前の日本だったのかもしれません。
 今回訪れた石上神宮も、今は伽藍がありますが始まりは背後にある山が神だったのかもしれません。
 私が初めてこの地を訪れたときの感想は、鬱蒼と茂る森に囲まれた境内に身を置いたとき、身体中のこまやかなセンサーか活動し肺の中には神聖な空気が取り込まれていくような気持ちがしました。そして、木々を渡る風は程よい湿度を保ち、遠くでさえずる鳥の声や葉のこすれあう音さえさえも耳元で聴こえるようでした。
 ところがそんな厳粛な気持ちでいると、静寂を破る突然鳴き声。なんとカラフルなニワトリがたくさんいます。ニワトリは私たちを気にすることもなく、堂々と境内を歩き回ります。どうやら神の使いらしく、境内ではたくさんのニワトリが放し飼いされています。
 
 ご存知だとは思いますが、あらためて石上神宮のHPから縁起を読んで見ます。創建は古く、なんと古事記や日本書紀に名前が現れます。当時の豪族物部氏が氏神として祭ったようですが、大和政権の武器庫であったというキナ臭い話もあります。
 私の物部氏の印象は、神社派の物部氏と仏教派の蘇我が絶えず争っていて、最終的には蘇我氏が勝ち物部氏は滅亡、その後の仏教の隆盛につながったと認識しています。でも、きっと歴史はそんなに簡単なものでは無いでしょうね。
 このあたりでは、歴史教科書に載っている様な大事件がたくさん起きていたことは事実です。そのような日本の創世記の舞台に立ち、神が宿る山や木々といった自然の中にたたずむことができる幸せを、石上神宮では大いに感じることができます。
 
 今回は、先生から石上神宮の「割り拝殿」を見たいといわれて訪れました。「割り拝殿?」。私は何度かここに来ていますが、割り拝殿の印象がまったくありません。仁和寺の亀岡末吉につぐまたもやノーマークの建物です。
 その日の朝はうす曇りでしたが、しだいに雲行きが怪しくなり、神社に到着する頃は、ワイパーでかききれない位の土砂降りになっていました。傘を用意し車を降りました。神聖な参道の砂利を踏みながら鳥居をくぐると、例のニワトリは雨をしのぐように小屋の下で丸くなってたたずんでいます。
 やまない雨の中、楼門をくぐり拝殿を正面に参拝して、先生が「割り拝殿じゃないな」とポツリ。
談山神社(室町時代)
談山神社十三重の塔1
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 長岳寺の次は山辺の道をさらに南下し、桜井市から多武峰街道に入ります。この道は山を登りさらに行くと明日香村へ続きます。その途中、談山神社はあります。
 今回の旅では時間が無く先生とは行けませんでしたが、以前行ったときの写真を載せたいと思います。
 添付の写真は、12月中旬に訪れた時で、屋根には雪が残っています。東北出身なので雪には慣れていますが、車の運転には緊張感しました。しかし、その後に観た建物の屋根に積もる雪は感激でした。
 もちろん誰もいない寒々とした山奥の神社に1人、さすがに心細いものですが、木々の葉は落ち遠くまで見通せていつもの風景とは違います。十三重塔に雪が積もり、一生見る事のできない風景を体験しました。
 
 談山神社縁起も古く藤原鎌足の長男によって創建されたようです。なんで談山(たんざん)神社と呼ばれるかというと、乙巳の変の戦略を練った、つまり談合した場所だからとも言われます。すなわち当時の中臣鎌足と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅亡させてしまうという、またまた日本創世記の大事件の関係場所になります。
 先ほどは石上神宮という蘇我氏と物部氏の対決の要所に立ち、今度は大化の改新に至る作戦会議場である談山神社に立つことができたのですから、歴史好きにはたまらないです。
 
 談山神社で有名なのはなんといっても十三重塔でしょう。父鎌足の墓所に建てたとも言われますが、現在の塔は1532年室町時代末期の作品です。13階建ですが、最下層の屋根だけが大きくそれ以上の階は逓減も小さく、13段重なる屋根の間隔は狭く複雑な組物も見当たりません。しかし、連続性にこだわらず、一層目を広げた屋根のバランスは絶妙です。
 どうですか、雪を乗せた十三重塔。旅はときどきこのような偶然を体験させてくれます。

 次回のさまよい紀行は當麻寺と海住山寺を書きます。
石上神宮参道
 石上神宮の拝殿は鎌倉時代の作品で国宝指定されていますが、神社の拝殿という構えではなく寺の雰囲気を持つ立派な建物です。細工は貫や木鼻、そして扉を支える藁座のある禅宗様が採用されていました。太目の垂木を大胆に見せつけていますが、柱のサイズやスパン割りはとっても繊細な印象を受けました。ただ残念なことに吊るし燈籠に接続する配線が露出しコンセントが丸見えになっていて残念です。気を取り直して一歩下がって屋根に目を移すと、拝殿の屋根は檜皮の入母屋です。全体的にバランスが良く端整な気品のある建物ですが先生の目的の拝殿ではなかったようです。
 「先生、一応これは国宝拝殿ですよ」というと「こういうんじゃないんだよ」と。
 
 結局、割り拝殿を探して雨の境内をブラブラと散策、ぬかるみを押して裏山を探索。うっそうとした森は雨にけむり、いっそう神秘的な雰囲気をかもし出します。足元の固そうなところをおそるおそる選びながら、さらに奥に進みますがいっこうにそのような建物はありません。「先生、拝殿の後ろにあって見えないんじゃないですか。」「そんなことはない、あるはず。」そんな会話をしながら歩いていると、しだいに雨が弱まり、ついに太陽がのぞいてきました。木々のはざまを通り抜けて漏れる光はいっそう神神しく感じます。
 裏山の散策をあきらめ楼門まで戻ると、楼門の反対側の小高い山に気がつきました。その石段を登ったら、「井上、これだよ!。」って先生が示した先に平屋の簡素な割り拝殿がありました。
 事前に調べればいいのに、私たちは行き当たりばったり。移動しながら、「あそこに行ってみないか」って予定も立てずにぶらぶら旅で、だからこそこのようなワクワクするようなハプニングがたくさんありました。たとえばこのあと訪問する橿原考古学博物館の特別展も、先生と朝食を取りながら見たテレビニュースで行くことを決めました。
 旅って本来このようなものかもしれませんね。
 
 話を割り拝殿に戻します。この割り拝殿は、正式には「石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿」というそうです。
 中央が通り抜けできる設計で、その左右に細長く広がる平面計画は対称形のバランスの良い建物でした。通り抜けできる中央部の屋根は、切れ長の唐破風でできていて、縁側の下には亀腹の漆喰が見えます。濡れ縁は水平線を強調するように、大胆に小口を見せた床板が配置されています。建具は引き違いの格子戸で、まるで平安時代の住宅のようです。シンプルですが形のいい粋な日本建築を見せ付けられたそんな気がしました。
 蛙股好きとしては中央の蛙股も見逃せません。これもまたシンプルですが足が股の角度が立った力強く美しい姿を魅せます。
 
 石上神宮には、見ることはできませんが古墳時代に遡る七支刀というの文字が刻まれた刀があります。この文字の解読は、朝鮮半島との関係まで浮き彫りになるということで話題になりました。
 もしこの話が今だったら、文字解釈をねじ曲げて好き勝手な歴史をでっち上げていたかもしれません(双方)。いつの時代でも歴史認識は正確をもってして欲しいものです。