白毫寺手拭
 興正菩薩(西大寺展のポスター)
 以前鎌倉の寺院を書いたときに閻魔堂のおまけで白豪寺をすこしだけ書きました。その時にクマというとてもかわいい犬の話も添えましたが、今回もいました「クマ」。お寺の関係者に尋ねると、世代交代した犬の名前もクマだそうです。最初に会ったときからずいぶんと時が流れましたから当たり前です。ここで御朱印帳を購入したとき、表紙の寺院名が書き込まれるところが空欄だったので、記念にクマと書いてくださいとお願いした思い出があります。あれから御朱印帳も増えましたが、当時のクマと書かれた御朱印帳は大切な思い出です。


 次回はさらに山辺の道を南下し石上神社長岳寺を散策します。
 哀愁のクマの後姿
 クマと受付
 白毫寺の御朱印
 クマの揮毫の入った御朱印帳
 境内には石仏も点在
 五色椿(奈良三椿のひとつ)
 本堂までもう一息
 最初の石段の参道
 参道石段から旧街道を見下ろす
 白毫寺界隈の道
 その山辺の道のかたわらにある白毫寺は、奈良市中心部から5キロ程度のところにあります。もし山辺の道が柳生街道に接続すると考えれば、白毫寺は山辺の道の北端にあたります。いずれにせよ奈良を歩くと、古道の周辺には歴史の舞台がそこかしこに現れてきます。
 
 白毫寺の歴史は、寺の案内によると天智天皇のころと言われますが、はっきりしているのは鎌倉中期に西大寺興正菩薩(叡尊)の再興によるものと言われます。
 寺の参道は長い石段が連なり、その通路には季節ごとにたくさんの草花が無き乱れます。そして息を切らしながら登りきった先にようやっと本堂が見えてきます。
 もちろん境内にもたくさんの古木があって、季節ごとに花が咲き乱れ参拝する人を楽しませてくれます。
 なお白毫寺の「五色椿」は奈良の代表的三つの椿に数えられ、以前第31回さまよい紀行で書いた東大寺開山堂「糊こぼし椿」、伝香寺の「武士椿」とならび有名な椿の古木です。
 古木を愛で、草花を愛で、野仏を愛で一段落したとき、境内の平場から登ってきた石段を振り返ると、眼下には大和盆地、そしてはるか遠くには信貴山や生駒の山並みを見ることができます。
 千年以上も前に、ここに国の始まりがあったと思うと、とってもいとおしく母のような優しさを感じます。
 
 白毫寺には康円作と伝わる鎌倉時代のすばらしい仏像が納められています。閻魔大王像は鎌倉市の円応寺の閻魔大王(運慶作?)が有名ですが、白毫寺のそれは至近距離でその圧倒的な迫力を感じることができます。他にも司命像・司録像・太山王像など閻魔一家が大迫力で出迎えてくれます。また寺にかかわりの深い興正菩薩(叡尊)坐像が納められています。
 飛鳥地方
 山辺の道
 弘仁寺明星堂
 弘仁寺本堂(江戸時代)
 前回は京都仁和寺を書きましたが、仁和寺を訪れたその日の夕方、京都を離れ奈良へ移動しました。
 第36回『建築と仏像のさまよい紀行』からは4回に分けて、先生と歩いた奈良の旅を書きます。
 奈良では初日を白毫寺、長岳寺、石上神社と拝観し当麻寺のシンポジウムに参加いたしました。翌日は橿原考古学研究所の付属博物館で特別展拝観し、その後は一気に北上し、京都南山城の海住山寺、観音寺、壽寶寺、神童寺、禅定寺の建築と仏像を拝観いたしました。
 いずれの場所も見ごたえのある場所で、さらにすべて先生の解説つきという贅沢な旅をいたしました。
 

 私が学生だった40年前の旅は、貧乏旅行があたりまえでした。
 交通手段として国鉄周遊券という格安チケットがあって、そのなかの近畿ワイド周遊チケットは、近畿地方の国鉄普通列車を乗り放題で、関西までの夜行急行寝台や国鉄バスも乗ることができたのです。金は無いけど時間がある学生には好都合なチケットで、期間は15日間ととても長いものでした。そのような特典を駆使した当時の旅が思い出されます。
 
 学生の宿は、寝袋野宿やユースホステルか宿坊と相場が決まっていました。特にユースや宿坊は食事が付いて定額で安全な宿として重宝していました。
 京都には前回書いた仁和寺の近くに宇多野ユースがあってよく利用しました。また奈良には奈良ユースや多武峰(とうのみね)ユースホステルがありました。
 利用した人はおぼえていると思いますが、宿泊客が夕食後ホールに集まりゲームしたり情報交換したり、他人との接触をわずらわしい感じる人が多い昨今、はたして受け入れられているのでしょうか。また、外国人のバックパッカーも多く、インターナショナル貧乏人同士が意気投合し、国際感覚を身につけることができてとても刺激的な時間でした。
 そして学生時代の宿坊は、ユースと並んでとても魅力的な宿泊施設でした。今回はそんなわけで(どんなわけで)奈良弘仁寺の宿坊に先生と宿泊しました。
 宿坊へのアクセス道路周辺は、街灯も無く案内板も見落としそうな静かな場所です。携帯電話の電波も弱く(最近つながるようになった)近くにはコンビニも無い山奥のお寺です。
 幹線道路から山道を入ると、車一台がやっと通れる細い崖地の道をおそるおそる通り抜け、行き止まりがお寺に着いたことを教えてくれます。そこは、車のドアをあけて地面に足を踏み入れると、ふかふかに落ち葉が敷きつめられた木々に囲まれた駐車場です。
 弘仁寺の縁起は古く、弘仁5年天皇の夢に出現した場所を小野たかむら(第28回六道珍皇寺に話題としてとりあげる)に探索させて、三重県との県境の山の西側ふもとのこの場所を見つけ、弘仁寺が建立されたそうです。
 伽藍は小高い山に囲まれた山腹の高低差を利用してできています。
 交通の便があまり良くない代わりに、喧騒から解放されて静かでのんびりとした古寺の風景を楽しむことができます。四季毎に木々の色が移り変わりや鳥のさえずりが日々の疲れを癒してくれます。
 私は弘仁寺の宿坊をよく利用させていただいておりますので、先生にもその話をすると、とっても興味をもっていただいたので、今回は一緒に宿泊することになりました。
 朝起きると、宿坊から身支度を整え本堂に移動します。薄暗い室内は、まだ目が慣れず真っ暗です。座禅をしてお経を聴いて、御住職から寺の縁起をいただいているあいだに、薄暗い本堂に安置された仏像が、朝の日差しで徐々に浮かび上がってきます。暗闇に慣れた目にそのお姿が確認できる、そんな神秘的な体験ができます。
 
 京都奈良は国内外から観光客が押し寄せ、どこにいっても騒々しいと書きましたが、奈良の古寺のなかには、静かなたたずまいで私たちを迎えてくれる素敵な寺院がたくさんあります。
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 左の写真は山辺の道の一部。右の写真は岡寺からのぞむ飛鳥地域
 写真左は弘仁寺本堂。宿坊利用者の朝のお勤めはこの中で行われます。平安時代から鎌倉時代の四天王像を見ることができます。
 写真右は明星堂。重要文化財明星菩薩立像は奈良国立博物館に寄託。
COMMON ROOM


仁和寺宸殿の縁側小境建具
 弘仁寺伽藍
 白毫寺から大和盆地を望む
  第36回『建築と仏像のさまよい紀行』(白毫寺,弘仁寺)

 山辺(やまのべ)の道の前半
 訪れたところ
 白毫寺
 弘仁寺

 さて奈良珍道中の初日は、レンタカーを借りて「山辺の道」を南下し道に沿った社寺建築を拝観いたしました。今回のさまよい紀行は、その前半として白毫寺をぶらぶらした時の話を書きます。
 
 私は、学生時代の夏休みを利用して4度奈良と京都を旅しました。建築を志す私にとって、文化財の多い両府県はあこがれの地だったと思います。特に奈良県の「多武峰(とうのみね)」という地名は、ユースホステルもあったせいか特別の想いがありました。
 その場所は奈良市中心部から「山辺の道」を南下し、多武峰街道の先にあります。多武峰の歴史は飛鳥時代まで遡り、すでに日本書紀に登場する非常に古い地域です。
 前述の「山辺の道」ですが、奈良時代のころ飛鳥地域と平城京を結ぶ古道として上ツ道、中ツ道、下ツ道がありますが、山辺の道はそれよりも古い現存する最古の道なのです。