桟橋の台風被害跡
COMMON ROOM


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石炭生産施設ゾーン
 端島神社鳥居の額
 端島神社
 16号から19号棟中庭その3
 16号から19号棟室内
 100年経過の社宅
 さらに進むとくし型の建物が現れます。これは1918年大正7年に竣工した16号17号18号19号の社宅です。写真集やテレビ放送などでもおなじみなのでご覧になった方も多いのではないでしょうか。
 住宅の中には家財道具がそのままで、特に当時のテレビや洗濯機がその当時の生活を物語っています。
 16号から19号棟
 小中学校最上階で体育館が崩壊
 65号棟は社宅として使用された9階建ての建物です。映画のロケにも使われたそうなのでご存知の方が多いのではないでしょうか。建設年度で大きく3ブロックに分かれ、一番古いのは北東のSRCの建物ですが、壁面には内部鉄骨が表面に露出し腐食が相当に進行している様子がうかがえます。
竣工は終戦時の1945年で73年が経過していることになります。
 67号棟前面
 67号棟は外部階段が印象的な建物です。
 69号棟は病院です。
 65号棟上階から
 65号玄関庇
 65号棟北東面
 65号棟西側から
 さまよい紀行は、33回と34回の2回にわたり端島(はしま)という長崎県の島を取り上げます。端島というよりは軍艦島と言ったほうがしっくりくるかも知れませんので、ここでは通称名である「軍艦島」と表現したいと思います。
 今回はその前半です。あらためまして長崎市及び東京理科大の兼松先生今本先生には、上陸調査許可をいただき御礼申し上げます。なお、写真撮影及び写真の掲載については長崎市の特別な許可を得て公開のはこびになりました。
 
 さて、軍艦島のさまよい紀行ですが、軽々しく軍艦島に上陸したことを「さまよい」と書くのははばかられるので、あえて「調査」と表現したいと思います。そして到底物見遊山で訪れるような場所ではなく、しっかり日本の歴史に向き合うべき場所だと調査をして強く感じました。
 
 軍艦島は、「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されたことでもわかるように、近代日本の産業を支える石炭の採掘島でした。
 島の名前は端島ですが、遠くからみた島のシルエットが軍艦に似ているので、いつからか「軍艦島」と呼ばれているようです。島の大きさは長辺方向480m短辺方向160mで一周1kmほどの小さな島です。元々はさらに小さな島でしたが、江戸時代に石炭の存在を確認してからは、その需要の高まりとともに採掘施設の拡大にせまられ、埋め立てを繰り返し現在の規模まで大きくなったようです。
 最盛期の1960年頃には人口が5000人を超え世界一の人口密度の街になっていました。
 学校や病院はもちろん、映画館などの娯楽施設もあったようですが、今は、廃墟と化した建物跡にその面影を残すだけになりました。
 歴史的な背景や文化遺産としての価値は、専門外なのでわかりませんが、100年以上を経過した鉄筋コンクリート建物も存在し、その劣化の状況は、現在私が携わっている震災遺構建物の耐久性を語る上では、非常に貴重な遺構になります。

 建物の耐久性は、鉄筋コンクリート造であっても永久ということはなく、建物はいずれ時間の流れの中で朽ちるものです。
 それでは鉄筋コンクリートの耐久性はどれぐらいあるのでしょうか。
 イタリアローマのパンテオンは、すでに2000年を経過していますが外見上は健全性です。しかし、一般的な建物の耐久性は、せいぜい100年程度でしょう。

 このたび調査で、建物が朽ちていく様を目視することができました。そして建物はコンクリートの調合や建設場所の環境、そして施工精度等によって劣化の進み方が違う事がわかりました。
 
 第4回さまよい紀行で、東京理科大名誉教授沖塩先生の所有される、大正7年に建設された鉄筋コンクリートの蔵を取り上げましたが、そのさい「日本で最初の鉄筋コンクリート集合住宅は、大正5年に、外国人によって設計された軍艦島の住宅だといわれています」と書きました。
 今回は、まさにその建物(30号棟)を含む軍艦島に建つコンクリート建造物の調査になります。
 軍艦島に高層住宅が建設されたころ日本の建築物は、まだ鉄筋コンクリートではありませんでした。そのことからも、この地がいかに重要な場所だったうかがえます。
 建設は困難を極めたと思います。まだ経験の少なかった工法であり、離島のうえ、島内での真水の供給はできませんでしたので、船で運んだとの事です。鉄筋やセメントも少なかったでしょうから調達にも苦労したと思います。狭い敷地に高層の建物の工事を想像すると、相当の覚悟だったに違いありません。
 また、佐野利器の「家屋耐震構造論」の発表は大正4年ですから、ようやく高層にするための耐震設計の重要性が周知された時期でもあります。
 
 今回は、国内初の鉄筋コンクリートマンションである、102年経過の30号棟を筆頭に、100年・75年・50年の三段階に分けて、経年変化を目視で確認してきました。
 
 その結果、同時期の建物であっても劣化の状況に差が見られ、経年が劣化の進行をすべての要因ではないことを知りました。今後、今回の調査結果を震災遺構の設計に生かしたいと思います。
 
 材料学における調査報告は、今後発表される材料学の先生方の論文を参考にさせていただきますが、ここでは、現在の軍艦島の状況について触れたいと思います。

 軍艦島へは長崎市常盤2号埠頭より、専用の船によって渡船することになります。現在は、島の埠頭が先般の台風によって大きな被害を受け、一般の見学者の受け入れは中止しております。(来年には可能という情報も未確認ながらあります)
 もちろん島の埠頭は補修されていませんので、たとえ調査団といえども海が荒れれば上陸はできません。調査計画を立てても長い間足止めされることもあるそうです。また、晴れていても強風でなくても、風向きによっては上陸できない可能性もあるそうです。そのときどきの天候にすべてゆだねることになるため、大学の調査団でさえ、真剣にテルテル坊主に祈願するのかもしれません。
 ちなみに、上陸を許可されていない一般の見学者は、島の周りを専用のガイド船に乗って周遊しているようです。
 ドルシックナー(選炭場)と
 ベルトコンベアー
 高島炭鉱のある高島遠景
 16号から19号棟中庭その1
 16号から19号棟中庭その2
 病院棟
 67号棟外部階段
 病院棟1階柱
 落下した梁の一部
 小中学校は70号棟と呼ばれ、1958年の竣工で約60年が経過しております。最上階には鉄骨の体育館がありましたが、鉄骨が腐食し2012年以降に屋根が落階したようです。
 梁鉄筋の腐食
 調査に先立ち、今本先生の説明を受けながら島全体を3時間程度めぐりました。
島の北東に位置する小中学校前の広場に集合し、反時計回りに島を歩きました。
 説明の最後に、「単独で歩行する場所は、下から見上げて安全確認するように」との注意事項をいただきましたが、あとでその意味を痛感することになります。
 
 危険場所を熟知された先生が先導し、その後をついて行くだけのときと、自分自身で判断し、単独で行動する場合の状況はまったく違います。軍艦島では、構造計算の知識は恐怖心をあおるだけでした。
 床を支える柱が劣化し鉄筋が錆びていた場合、どのように安全検証をするのでしょうか。情けない話、足がすくむような場面がたくさんありました。調査中にコンクリート片の落下する物音も聞きまし、コンクリートの破片がそこかしこに点在しています。
 梁の損傷
 むき出し柱鉄筋
 上陸
 渡船の接岸
 調査機材の搬入
軍艦島遠景
 第33回『建築と仏像のさまよい紀行』(軍艦島の前半)
  
  調査したところ
  長崎県 端島(通称軍艦島) 世界文化遺産
 今回は軍艦島の前半として北東部の建物を紹介いたしました。
 
 軍艦島に上陸しタイムスリップしたその感覚は、島を離れて1カ月以上過ぎた今でも忘れていません。
 上陸したとき鉱員社宅から感じた人間の息づかいは、飽食の今を生きる私に鋭く突き刺さります。

 だからこそ、明治以降の近代化を支え、そして日本の高度経済成長を力強く支えたこの場所を忘れてはならないし、なによりも大きな犠牲をともない私たちの礎を築いた軍艦島で働いていた人たちに、敬意と感謝の気持ちを忘れてはならないと思いました。
 社宅炊事場
 社宅内部
 洗濯機
 PTA掲示板
 小中学校教室内部
 小中学校内部廊下
 教室から望む生産施設
 小中学校の南西面
 小中学校北東面
 島の埠頭は四段階の高さの船着場があり、どの高さの船着場を利用するかは、その時の潮位や天候を確認しながら船長が判断しているようです。今回も、何度かチャレンジしながら最適な船着場を選定していました。
 上陸の際には、船員から「落ち着いてゆっくり上陸して下さい」と声をかけられ手を差しのべてもらいの上陸でしたが、波に揺られちょっと危険な感じがしました。
 上陸すると、次は桟橋に問題があります。今年の台風25号で損傷し、折れてしまった手すりをたぐりながら、軍艦島へと続く幅1メートル程度の桟橋に隊列を組んで、バケツリレーのように手渡しで実験機材を移動させます。
 それにしても、台風の威力はすさまじく、鉄製のパイプがものの見事にねじ曲げられて、行く手を阻むようにバリケード状に変形しています。
 そのパイプをまたぎながらようやく上陸しました。