COMMON ROOM


 みなさんは「弘前」という地域にどのような思いをいだかれているでしょうか。私は、即座に「歴史と文化の街」をイメージいたします。
 弘前には、国指定重要文化財建物だけで、弘前城を1棟と数えても(城内に重文9棟)19棟もあります。仙台市の所有する重要文化財数が4棟(国宝1棟を含む)であることを考えれば、弘前の所有する文化財建造物がいかに多いかがわかります。今回は、そのような歴史文化の街「弘前」の旅を書きます。


 函館まで新幹線が開通した現在、東北の主要都市は、新幹線の停車駅で便利さを判断することが多いと思います。今回さまよった弘前は、新幹線新青森駅からさらに30分ほど電車にゆられる必要がありますので、県庁所在地の青森市に比べて、弘前市は遠い印象をお持ちではないでしょうか。しかし、弘前の街並みは美しく、食べものがとっても美味しいとても魅力的な街ですので、移動にわずらわしさがあったとしても十分に楽しめる都市です。
 さらに弘前市周辺には、太宰治の出身地金木や、立ねぶたの五所川原など、日本の原風景を思い起こさせる土地がたくさんあります。
 私は、今から10年以上も前になりますが、弘前に程近い町まで4時間ほどかけて入札に赴き、数千万の入札を数万円の差で落札できなかったことがありました。そのときの私は、書き入れた金額に対する後悔のために、茫然自失落胆絶望で全身の血液が失われた生気のない人間に映ったに違いありません。
 実際は、自称能天気で切り替え早いテキトウ性格なので、せっかく遠くまで来たので観光でもしようと、太宰治のふるさと斜陽館に行きました。しかし、気持ちの切り替えの変化に、私の表情(外見)が追いつかず、落胆姿のまま、よりにもよって斜陽館を選んでしまい、事情を知らない館の職員が心配してくれて、手厚いおもてなしをしてくれたことを思い出します。
 というのも、その日は立ちねぶたの最終日で、五所川原周辺は全国からの観光客であふれかえってとてもにぎやかな雰囲気でした。しかしそのなかにあって悲壮感たっぷりのダサダサ男が斜陽館にいるのですから目立ちます。斜陽館の事務員は、なにかしでかすのではないかと心配してくれたのでしょう、にぎわう街の中に一泊の宿を無理して用意してくれたのです。感激しました。当然その日の夜は立ちねぶたを観て、吉幾三さんの軽トラ荷台での生歌ライブまで観ることができました。
 宿に帰る道すがら、小さな居酒屋でひとり飲んでいたら、隣にいたおじさんたちが話しかけてきて、「貝焼き味噌」や「田酒」をご馳走してくれて、なんだか申し訳ない気持ちと、ハッピーな気持ちで、6万円で負けた入札のことがすっかり過去のことになってしまった経験があります。
 地元の人の優しさや、美味しい料理とお酒をいただいたとっても思い出に残る一日になりました(それにしても仕事の反省をしなければいけませんね)。
 
 だいぶ横道にそれましたが、ここで弘前の歴史をおおまかにひも解いてみましょう。
 古代には三内丸山遺跡の出土品でもわかるように、独立した文化圏が存在したようです(個人的には三内丸山遺跡の発見におおいに胸躍り感激しました)。しかし中世に入り蝦夷征伐等によって中央に飲み込まれてゆきます。
 平安時代前期までの弘前は、蝦夷の支配する領域で、中央政権が及ばない未知の場所だったのだと思います。しかし徐々に内戦のなかで蝦夷の勢力が衰え鎌倉時代には青森のすべてが陸奥国として幕府の支配地になります。その後の青森は、津軽といわれる日本海側に面する地域と、太平洋に面する南部に分かれます。
 津軽と南部のそれぞれに豪族が生まれ小さな5つくらいの藩が存在したようです。それぞれの藩は、明治時代に強制合併され、県庁を弘前に置いて弘前県として現在の青森の形ができます。その後、県庁は当時小さな町だった青森に移動され青森県として現在に至ります。
 しかし、合併はしたものの津軽と南部の敵対関係は長く続き、青森県の人に聞くといまだに遺恨があるようです(本当のことは知りませんが・・・)。さらには、幕末の会津藩の左遷場所も挟まっているために、歴史的背景は一言で語ることができないくらい複雑なもののようです。
 
 また、県の中央には津軽と南部を分断するように十和田山がそびえたちます。十和田山は有史以前から大噴火を繰り返し、そのふもとには火山灰の堆積した荒涼とした三本木原という大地が広がっています。その不毛の大地は、江戸末期から明治時代にかけて、新渡戸稲造の祖父つとうが中心になって、高度な土木技術を駆使し現十和田市の開墾を行いました。十和田市は碁盤目状の整然とした街区が築かれ、新渡戸家の功績は各所に見られます(私は市内にある新渡戸稲造記念館が存続の危機に対して応援をしています)。
 青森県は中央の十和田を挟んで日本海側と太平洋側に面している地域なので、気候風土もそれぞれにだいぶ違い、おのずと歴史文化も大きく異なり、やっぱり住んでみないとわからないことだらけです。
 そして現在の青森は、全国からの放射性廃棄物の処理施設がで・・。
 
 さて、話を弘前に戻します。現在は県の中心は青森市に譲りましたが、長い歴史の中で、弘前市は政治文化の中心だったわけです。
 いまでも、津軽弁や津軽三味線、津軽金風流尺八など、東北人の琴線を揺さぶる素敵な文化があります。
 これも余談ですが、私が二十歳の頃イギリスのロックバンド『Queen(クイーン)』が流行っていました。そのなかの「Keep Yourself Alive」が大ヒットしましたが、リードギターの奏法は津軽三味線のバチさばきにすごく近いものがあります。しかし、遠く離れた国の人気ロックバンドですからそんなことはありえないと思いましたが、先日、弘前の「あいや」という津軽三味線ライブハウスで演奏を聴いていると、やはりギタリストのブライアンメイは、そうとうに津軽三味線を意識していると強く感じました。
 
 「あいや」で演奏される渋谷和生さんの津軽三味線のリズムと音色は、東北人の心の中の叫びのようで、奥底に眠る魂が呼び覚まされます。
 
 また、私の仕事上の大先輩は尺八の奏者で、「サムライの時代の音楽(禅的尺八コンサート)」という定期演奏会は今年で10年目になります。そのなかには津軽金風流の使い手の尺八を聴くことができます。まさに江戸時代の弘前で奏でられたであろう、虚無僧の音色を毎年聴かせてくれています。竹一本の節を抜き、孔を空けることで奏でる尺八は、時に風になり、吹雪になり、鶴の声になり、静寂までもが緊張感の中で表現されます。魂の息を吹きかけて鳴らす調べは、私の身体の奥底にまで浸み込む芸能です。真っ暗なステージに小さなスポットライトで浮かび上がる凛とした演者の姿、そして静寂のなかに空気の動きを感じさせる尺八の音は、まさに眠っていた日本人の持つサムライの持つ精神性を呼び覚まさせてくれます。
 
 そのような芸能が息づく江戸時代前期の弘前に、仏師円空は滞在しました。生い立ちはわかりませんが、日本の各所でナタを使い「ちゃっちゃ」と多くの仏像を作っているイメージがあります。丸太を掘るというよりは、丸太を割り薄い板に版画でも彫るように作られたものをたくさん観ました。その数は四千体とも一万体ともいわれ、先日のお宝探偵団なる番組で高値のついた円空仏を見ました。
 実は、初期の作品は青森や北海道で観られます。そして青森県には17の円空作品がありますがそのうち地蔵菩薩と十一面観音菩薩の2体がここ西福寺にあります。
御住職の許可を得まして、拝観と写真撮影、そしてホームページへの掲載をさせてもらいました。


ここでお詫びです。仕事が忙しくて筆が進みませんので、後は写真のみの掲載でお許しください。
弘前城の写真とあわせてご覧ください。


尚、次回は円空への思いと、弘前城について踏み込んで書きたいと思います。
 西福寺の地蔵菩薩と十一面観音
やわらかな笑顔が印象的です。 
 十一面観音側から撮影
 地蔵菩薩足元
 地蔵菩薩宝珠
 地蔵菩薩両手で宝珠
 十一面観音下半
浄土宗寺院である西福寺本堂の円空仏
正面から見て左に地蔵菩薩、右に十一面観音が配置されています。
 五所川原立ちねぶた
 弘前城二の丸東門
 十一面観音左手
 十一面観音上半身
 弘前城追っ手門
 弘前城亀甲門
 西福寺正面
 十一面観音足元
 頭部の観音様
 頭部の観音様をアップ
 十一面観音右手与願印
改修前の弘前城天守閣
石垣工事のため、土台上部を移動しています。
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 第29回『建築と仏像のさまよい紀行』


 さまよったところ
  弘前城(青森県弘前市)
      天守、隅櫓、城門等(国重要文化財) 
 西福寺(青森県弘前市) 
  十一面観音菩薩立像(青森県重宝)
  地蔵菩薩立像(青森県重宝)

 円空展のチケット
 禅的尺八コンサート
 地蔵菩薩右腕の袈裟