COMMON ROOM


観心寺大随求菩薩の写し 
か梨帝母天堂の蛙股 
か梨帝母天堂側面 
阿弥陀堂正面
阿弥陀堂の扇垂木 
平斗の詰組 貫の木鼻 内法長押 いろんな工法が入り乱れている 
観心寺金堂遠景
金堂東側面 入母屋面に虹梁と大瓶束が見える
金堂西側面 漆喰壁と桟唐戸
和風な亀腹が横のラインを強調している
金堂正面 三間の向拝柱下には礎盤が見える
建掛塔組物
建掛塔正面
 会社を移転して2ヶ月が過ぎました。落ち着くどころか、毎日があわただしく過ぎ「さまよい紀行」の筆がまったく進まない状況でしたが、ようやく23回目のさまよい紀行を書き上げました。
 今回は前回予告していました観心寺本堂の折衷様について書きます。
 折衷様の仕様は、学生が講義で得た知識程度ではその違いを認識することは難しいのではないでしょうか。もちろん、建築史を専門としていない私の能力では、寺院の前に立って眺めてみてもはっきりした違いを認識することはできません。
 折衷様だけでなく、たとえば、飛鳥奈良時代に大陸から仏教と一緒に伝来し、日本古来の工法と融合し定着した和様や、鎌倉時代のほぼ同時期に輸入された、大仏様と禅宗様の工法の違いを認識することも難しいのではないでしょうか。
 しかし、耐震構造などの構造性能のみに着目し建築を分類するのであればできるかもしれません。
 古来の建築にたずさわる人たちは、地上に巨大な建造物を造ることで特別視されていたに違いありません。しかし、度重なる大地震の前で、崩壊してゆく寺院を見たときは、きっと無力さを感じたでしょう。したがって、日本の建築技術は、地震大国として他国とは違う特異な進化を余儀なくされたのではないでしょうか。
 耐震構造は、大地震の経験を踏まえ工夫をかさねて徐々に骨組みを進化させてきたのだと思います。
 建築技術者の中には、こだわりと誇りを持ち、仕事に対してけっして妥協しない職人がいたに違いありません。いつの時代も、そのような人たちが最新技術を習得し、より良いものを造り上げてきたのだと思います。
 折衷様とは、そのようなトライアンドエラーのなかから収斂され生まれた安定した工法なのかもしれません。
 
 私は寺院の前に立つと、和様、大仏様、禅宗様、折衷様の分類をしながら観ていますが、「なんとなくナニナニ様みたいだなあ」なんて思いながらも、結局最後までわからずじまいで寺院から離れているのが現状です。
 でも、そんな感じで良いのかも知れません。一生懸命建物を建てて、それを大切に修繕しながら維持してきた先人の努力に敬意を表し、これからも大切にしてゆこうと思う気持ちが大切なのかも知れません。
 
 そんなわけで、良くわからないなりに、観たまま、折衷様式の代表といわれる観心寺の感想を書きます。所在地は奈良との県境近くの大阪府の南部河内長野市にあります。
 奈良や京都には、多くの代表的古建築が集中しています。都の中に遺構が残っているのは当然のことですが、都から離れた地方にも、驚くような建造物や仏像に出会うことがあります。不思議ですが、私の好きな建物は、意外にも奈良京都から離れたところにあります。たとえば、禅宗様の正福寺は東京都ですし、大仏様の浄土寺は兵庫県、そして和様の高蔵寺阿弥陀堂は宮城県にあります。どれもこじんまりした建物ですが、それぞれが個性的で美しい大好きな建物です。
 
 さて大阪にある観心寺は、真言宗の寺院で、境内には国宝の金堂、重要文化財の建掛塔などがあります(恩賜講堂は先日重要文化財になったばかり)。そして、金堂の中には国宝如意輪観音坐像が安置されています。
 観心寺のホームページによりますと、創建は奈良時代とされています。現在の金堂などの堂宇が建設されたのは南北朝時代で、後醍醐天皇の勅により楠正成が奉行として深くかかわりのようです。特に興味深いのは、未完成の建掛塔とよばれる三重塔の一層目が残されています。骨組みが丸見えなので、三重塔の構造を知る上で非常に貴重な建物になっています。ちなみに未完の理由は楠正成の死によって建設が中止され、このような塔になったということです。
 
 本堂はX方向Y方向ともに7間のほぼ正方形で、外陣は柱を一列抜いてY方向に大きな虹梁を架けています。内陣には中央にあこがれの如意輪観音の厨子があり、両脇には金剛界と胎蔵界のそれぞれの曼荼羅が配置されています。
 中に入った印象は、外陣も内陣も一部柱を抜いて大きな空間を作っているため開放的な感じがします。如意輪観音の御開帳の日は、大勢の参拝者で内陣も外陣も混雑していました。和尚様の解説をうかがいながら、入れ替わるタイミングを利用して徐々に正面の最前列まで移動して拝観しました。
 如意輪観音は、財宝や幸福をもたらす観音様として密教寺院では本尊としてまつられています。とくにそのお姿から女性から支持されて信仰されていたようです。
 一面六臂でその手には宝珠・法輪・蓮華を持ち、方膝立ちでその両足裏を合わせる輪王座で蓮華座の上に乗っています。
 腕の曲線は生きている女性のみずみずしさがほとばしります。そして、頬に指を当てることによって腕の曲線を強調し、こちらを誘っているような気さえします。官能的な女性を描写したにちがいありません。指先の動きは女性を美しく見せるポーズなのでしょうか。全身に残る鮮やかな色彩、伏目がちで瞑想している表情、外側に崩しながら方膝を立てた姿は、きちっと真面目に正立している仏像とは違うすごみを感じます。想像していた通りの妖艶なお姿には美しさ以上に怖さすら感じました。どうしてそのような感情になったのか、長い時間あれこれ考えながら拝観いたしましたが、自分の中にある卑しい感情がそう感じさせたのだと結論づけました。
 とにかく言葉にはできませんが忘れられない仏像になりました。製作年は平安前期と見られますが、芸術作品としてみたときに、このようなすばらしい作品を作った人は、いったいどのような人だったのでしょうか、まったく興味が尽きません。
 余談ですが、先ごろ三井記念美術館では西大寺展が行われていましたが、6月の前半1週間のあいだ、浄瑠璃寺の秘仏吉祥天像が公開されていました。この仏像も何時間でも見ていたい仏像です。中宮寺弥勒菩薩、法華寺十一面観音、秋篠寺伎芸天など女性を意識したすばらしい仏像がたくさんありますが、日本の古代の造形美術のレベルの高さを観た思いがします。
 
 さて本題になりますが、本尊如意輪観音に感動して、建物を見て来る事を忘れていました。ボーっとした頼りない記憶をたどりながら折衷様の様子を書きます。
 内部の外陣上部は、天井はなく骨組みが露出しています。柱を一列抜いて、そこを成の大きな虹梁で2スパンに架かけ、その中央に大瓶束を配し柱を抜いた部分の屋根を支えていました。また短スパンの横架材は海老虹梁の形式を採用し、それぞれの柱頭をつないでいます。これらの形式は、禅宗様によるもので、力の流れを合理的に伝達している工法といえます。
 外周に目を移すと、正面入り口の向拝の足元は面取りの角柱から形状を連続させた礎盤で支持し、その下の礎石によって地盤に力を流します。上部の頭貫先端は木鼻に加工しています。
 正面の建具は、上下藁座で支持された桟唐戸、端のスパンは連子窓と土壁になっています。
 側面の入母屋には、虹梁に笈型付きの大瓶束、その下の詰組部分には双斗と三斗の組物を平斗で配置しています。
 以上の項目はおそらく和様大仏禅宗様の特徴なのでしょうが、私自身が良くわかっていないので、現状報告として様子を書き写真を以下に載せますのでご覧ください。 

第23回『建築と仏像のさまよい紀行』

観心寺本堂(国宝)と如意輪観音(国宝) 所在地 大阪府河内長野市

境内の石仏 エキゾチックな容姿 
観心寺如意輪観音御開帳記念シート
西大寺展リーフレット1 
西大寺展リーフレット2
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