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陸奥国分寺休憩所(回廊復元)
陸奥国分寺休憩所(回廊復元)
平等院翼廊1
平等院翼廊2
東大寺大仏回廊
薬師寺玄奘三蔵院回廊正面
薬師寺玄奘三蔵院回廊
薬師寺回廊内部側1
薬師寺回廊内部側2
薬師寺回廊外部側
興福寺北円堂回廊礎石1
興福寺北円堂回廊礎石2
法隆寺回廊連子窓とエンタシス
陸奥国分寺休憩所連子窓
法隆寺回廊1
法隆寺回廊2
 まもなく陸奥国分寺の回廊を復元した建物が竣工します。そこで、今回の「さまよい紀行」は、復元設計を行って感じた伝統的木造建築物の耐震性について書きます。
 
 過去に、法隆寺宮大工の西岡常一棟梁と学識経験者との間で、耐震性のについて激しいやり取りがあったといわれます。
 薬師寺金堂や西塔、法輪寺三重塔の再建を担当した西岡棟梁は、建築基準法において求められる現代の金物等の使用について拒否し猛然と反対したそうです。
 一千年続く技術は口伝という伝承手法によって継承されました。しかし「口伝」という伝達手法は、現在の建築基準法にはなじみません。
 
 現代の生活において安全性を担保することは当然です。したがって、安全を証明することは、我々技術者にとって当たり前の責任です。しかし、口伝である以上その伝承については不明なことが多いことと、なにか入り込めない聖域のような感じさえします。
 
 安全性担保の歴史は古く、ルーブル博物館所蔵の「ハムラビ法典」には、すでに次のような文章が記載されています。(写真と法典翻訳は構造工学の基礎 藤本盛久著より)
 
 1. 建物が十分な強さを有せず崩壊してしまったならば、工匠は自分の費用で建て直さなければならない
 2. 崩壊の結果、施主が死亡したときは、ただちに工匠は死刑に処せられる
 3. 崩壊の結果、施主の子息が死亡したときは、工匠の子息は死刑に処せられる
 
 地震や構造部材のメカニズムがわからない紀元前1500年頃に、そのような法典により、安全を求められた技術者はまさに命懸けだったでしょう。
 ハムラビ法典の歴史は、日本では縄文時代にさかのぼります。国内にはその当時の建造物は残されていないので、具体的にどのような技術があったかはわかりません。おそらく、定住生活をしていたとしても洞穴を住かにしていたのではないでしょうか。その時代に、すでに他国では建造物に関する法整備がされていたとは驚きです。
 しかしながら、そのような歴史があるにもかかわらず、ハムラビ法典発祥の地を中心として起きている戦争では、技術の発展と人間の精神性の成長は別物だということを思い知らされます。
 
 さて古代の日本の建築技術はどうだったでしょうか。
 「第12回さまよい紀行」で木造最古の建築物法隆寺の諸堂を例に書きました。法隆寺は、ほぼ当時のまま残っているので、伽藍に立つと奈良時代にタイムスリップできます。1000年以上の歴史を持つ建造物が、目の前に現存し、古代の世界にいざなってくれる、そんな幸せを感じる瞬間です。
 
 伝統木造の建築物の性能に関しては、西岡棟梁のお考えや学識経験者の考え、そして建築行政の考えなどさまざまありますが、そのコンセンサスを得ることは非常に困難だと感じます。もちろん古建築をノスタルジックにとらえるつもりはありません。しかし、法隆寺の回廊につつまれていると、理屈を超越したところに技術が存在し、厳しい教えを継承した宮大工の姿が思い浮かびます。
 当時の日本には、ハムラビ法典のような成文化された法律はなかったかもしれません。しかし、口伝で伝えられた厳しい教えを身体にたたき込み、1000年以上の間、技術を絶やさずに継承した文化に、尊敬の念を禁じえません。
 
 西岡棟梁は次のように話しています。
 「自然を『征服する』と言いますが、それは西洋の考え方です。日本ではそうやない。日本は自然の中にわれわれが生かされていると、思わなくちゃいけません。」
  自然を相手に設計している私にはとても重い言葉です。
 
 さて、ここで奈良時代の建物について書きたいと思います。
 まずは、代表的な耐震部材を、「伝統工法を生かす木造耐震設計マニュアル・限界耐力計算による耐震設計耐震設計手法」にしたがって以下に列記してみます。
 
 1. ホゾ接合
 2. 貫や差し鴨居のような中間横架材
 3. 土壁等の壁材
 4. 小壁
 5. ブレース(筋違い)
 6. 柱の傾斜復元力
 7. 独立型の掘っ立て柱
 
 以上の7種類程度が挙げられますが、いわゆる伝統工法における地震抵抗材は、時代と共に徐々に技術革新し改良されてゆきます。
 回廊施設について工法を考察すると、古墳時代以前は、青森県三内丸山遺跡や佐賀県吉野ヶ里遺跡などで見られるように、掘っ立て柱が多かったように思います。
 その後、飛鳥時代や奈良時代に入ると、大陸からの仏教伝来と同時に、寺院建築の技術が輸入されます。柱は掘っ立てから石場建てになり、柱脚よりも柱頭が注目されます。
 しかしこの時代は、鎌倉時代以降に多用される、貫や差し鴨居のような耐震性能に優れた中間横架材は少なく、ほとんどが太い柱による傾斜復元力と、柱頭にホゾを設け大斗を配した組物に地震抵抗を期待していたように思えます。
 
 それでは、奈良時代に多用された柱の傾斜復元力抵抗とは、どのようなものでしょうか。
 
 石場建て以前の掘っ立て柱とは、地中に柱を埋設した電信柱の形式です。これは土圧による支承で、埋め込み深さが深ければ抵抗力が増し、土が固ければさらに抵抗力が大きくなります(曲げ抵抗)。
 それでは、石場建ての傾斜復元力抵抗機構は、どのようなものでしょうか。それは、未使用の鉛筆を机に立てて小さい揺れなら元に戻るようなものです。鉛筆が太ければより安定するだろうし、上からおもしをかけるとさらに安定する、そのような仕組みで地震に抵抗するのです。
 さらに、履歴減衰をともなわないうえに、大変形時には負勾配になるという、設計者泣かせの構造部材でした。
 そして、今回の復元で使われた礎石は、水平平滑面ではなく自然石のごつごつしているものが多かったのです。したがって、柱底面の軸応力度分布は複雑で、時々刻々たくさんの変数をともなって変化するもので、これを定量化することは並大抵のことではないなと直感しました。
 傾斜復元力による建物の耐震性能は低く、そのままの状態で大地震にまで抵抗するように設計することはほぼ不可能だと思います。
 それを裏付けるように、奈良時代の形式で建てられた建物は、後世になって、補強を行っているものもあるようです。もちろん大地震で倒壊し建て直したものもあったと思います。
 
 さて、今回の復元設計では、建築基準法を満足させる必要がありました。平成28年6月の改正まで建築基準法では、施行令42条の2によって「土台は基礎に緊結しなければならない」と規定しています(その後改正され、いわゆる石場建てが可能になりました)。また、施行令47条の1には「継手又は仕口は、ボルト締、かすがい打ち、込み栓打その他の国土交通大臣が定める構造方法により、その部分の存在応力を伝えるように緊結しなければならない」とあります。
 設計した回廊は、自然石礎石で400mm径の丸太柱、貫や耐震要素となる壁等はなく頭貫の上に大斗とよばれる梁を受ける皿が載り肘木(ひじき)丸桁(がぎょう)といったいたってシンプルな形式です。法適合と伝統工法の狭間で試行錯誤を繰り返しました。
 その結果として導いた解は、金物を使用し安全性を確保するという方法です。この手法が正しいかどうかは、先ほど述べた「西岡棟梁のお考えや学識経験者の考え、そして建築行政の考えの違い。」に帰着します。
 過去の建物を復元する行為とは、一般的な建設のなかでどのような位置付けと捉えればよいのでしょうか。
 現代の建物を設計している私が、長い年月を日本の文化と共に伝承してきた古建築の耐震性能をどのように捉えればよいのか、非常に難しい問題に直面いたしました。
 
 しかしながら、奈良時代の建物は、限られた耐震性能部材によって、現在に至るまでの長い期間を維持してきたということになります。
 
 復元した建物は、まもなく竣工いたします。建物の竣工後、常時微動測定を行い建物の性能を振動特性から検証しようと思います。
 今後、数多くの伝統工法による古建築が性能評価されるでしょう。近い将来その秘密が解明されるかもしれません。もし、私の業務がその一助になれば幸せです。
 
 そして敬愛する西岡常一棟梁の代表的な言葉を書きます。
 ・ 木は生育の方位のまま使え
 ・ 百工あれば百念あり
 ・ 自分で考えろ
 ・ 責任は私が持つからやってみろ
 
 会社を経営し人材育成をしている私には、口伝で伝わる西岡棟梁の言葉がとても重く響きます。
 
 最後に、日本に残る印象的な奈良時代の形式をとる回廊を中心にご紹介いたします。
陸奥国分寺休憩所(回廊復元)
ハムラビ法典

第20回『建築と仏像のさまよい紀行』奈良時代の耐震性能について雑感

史跡陸奥国分寺休息施設は、塗装が途中段階であるため、次回完成したときに詳しい写真をお見せいたします。


法隆寺回廊(国宝 奈良時代)所在地 奈良県斑鳩町
薬師寺回廊(復元)所在地 奈良県奈良市
薬師寺玄奘三蔵院回廊(復元)所在地 奈良県奈良市
史跡陸奥国分寺休息施設(回廊復元)所在地 仙台市
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