会社の創業25周年を機にはじめた「さまよい紀行」は第二回目です。
私が今まで散策し出会った、建築と仏像の思い出を、勝手気ままに書きます。お時間の許す方は、どうぞお立ちよりください。
第二回は、前回の禅宗様の建物に引き続き、構造美にこだわった大仏様の建物をとり上げますが、はじめに私の近況から報告いたします。
先週9月5日土曜日、東京ドームで行われた矢沢永吉ライブに行ってまいりました。ライブ会場周辺は、矢沢永吉ファンによって埋め尽くされ、異様な盛り上がりで、一種独特の景観を形成していました。かく言う私もその中の一人ですが、「矢沢教の信者」とも言うべき熱狂的なファンは、YAZAWAのどこにひかれるのでしょうか。
私は、彼のロックンロールに対する熱い想いと、純粋で真っ直ぐな信念が、そのカリスマ性を生み出しているのではないかと考えています。
ロックンローラーYAZAWAは、現在も日本のロック界を牽引し続け、音楽シーンを変えてきたパイオニア。そんなYAZAWAもすでに65歳を過ぎました。しかしそのパワーは、いまだに衰えることはありません。MCのなかで、「矢沢さんは年をとりませんね」の問いに「年をとっている暇は無い!」と言い切っていました。できるヤツは求められ、休む暇も無く走り続けるのでしょう。
話が横道にそれましたが、今回は、平安時代後期から鎌倉時代の前期をパワフルに走り抜けた「できるヤツ」、僧重源の作品を取り上げます。
奈良の都は、前回の広島とは時代を異にしますが、戦争により焼き尽くされた過去があります。それは平重衡による東大寺や興福寺を中心とした武装していた仏教施設への焼き討ちでした(平家による南都焼き討ち)。それによって、東大寺のほとんどの施設が失われました(転害門など一部残る)。
その再興をプロデュースしたのは僧重源でした。そのときの彼の年齢は60歳を過ぎていて、亡くなるまでの約25年にわたって(86歳没)東大寺の勧進を進めたといわれています。現代の平均寿命とは格段の差があった時代です。はたして何が彼をそれほどまでに行動させたのでしょうか。
重源上人坐像は写真で見て知っていたのですが、印象は、やさしい顔立ちの猫背の老人のように感じていました。しかし、実物にお会いしたときの印象はまったく違っていて、はじめて間近に対峙した時は(2012年12月16日重源上人坐像と東大寺開山の良弁僧正坐像の特別開帳時)、深くくぼんだ目の奥に光る眼光で、私の心の奥まで見透かされているようで、その気迫に圧倒され、一瞬息をのみ、身動きができないほどの殺気を感じました。
仏師名の記載がないので、誰の作品かわかりませんが、重源本人の精神性まで踏み込んだ、まさに渾身の作品だと思います。ぜひ機会があったら実物を鑑賞してください。きっと80過ぎまで現役バリバリで活躍した、鎌倉時代のYAZAWAに会えると思います。そして、仕事に対するモチベーションはバッチリUPします。
それでは、重源上人という人はどのような人物だったのでしょうか。
彼は、大陸に渡り、宋で建築事業にたずさわっていたため、大陸の先進的な工法を習得していたといわれています。そのため、帰国してから、東大寺復興の責任者に任命され、採用した工法こそが、いわゆる大仏様だったわけです。
今回とりあげた南大門は、門の中に入って小屋組みを見上げてみると、幾重にも重なる、比較的小口径の同一断面の部材が、柱を貫きフレームを構成していることがわかります。そして最上階は、大虹梁で柱の頂部同士が結ばれ屋根が支えられています。
はたして、これらの部材の地震時のメカニズムはどのようなものなのでしょうか。5,6段重なる貫の復元力はどのようなものなのか、構造設計をおこなっている技術者としては、南大門の骨組みの興味は尽きません。
また、建物を少し離れてみてみると、大きな庇を支えるために、挿肘木が大きく張り出し、その先端には振れ止めが配置されています。また挿肘木の上には、力を分散するように桝組みが均等に配置され、構造的安定感を与えてくれます。
垂木は、四隅が扇垂木になっていますが、軒先は、小口からの劣化を防ぐためなのか、鼻隠しで隠されています。小口は隠れて見えませんが鼻隠しが無かったらどのような外観だったのでしょうか。
私は、大仏様の力学的合理性に基づくシンプルな構造が好きです。
あますことなく、構造部材をデザインに取り込んだ大仏様の南大門は、前回の禅宗様の広島不動院金堂同様、構造設計に関わっている人や、構造設計者を目指している人に見ていただきたいのです。
そして、大事業を成し遂げた僧重源に思いを馳せてほしいと思います。
しかし、そのような大仏様の建物は、国内にはあまり残っていません。代表的な建物としては、快慶の大きな阿弥陀三尊像が安置されている浄土寺浄土堂でしょうか。
そのほか、概観からはよくわからないのですが、内部の構造が大仏様だなあと感じさせてくれるのは、東大寺敷地内の法華堂の増築部分(入り口側)や良弁僧正坐像が安置されている開山堂、そして、鐘楼の骨組みでしょうか。しかし、どれも南大門ほどのインパクトは感じられません。
大仏様の工法は、重源の没後、ほとんど採用されなくなりました。どうして大仏様が急速に減少し衰退したのでしょうか。
それほどまでに牽引力のあった重源は、いったいどのような人物だったのでしょうか。
次回も、引き続き重源のことや大仏様のことなど、今まで、「さまよった」なかで、大仏様に出会った経験を書いてみようと思います。
第2回『建築と仏像のさまよい紀行』
東大寺南大門(国宝)
所在地 奈良県奈良市
建物概要 桁行五間・二階建て瓦葺きの大仏様
建立時期 1199年(正治元年)上棟