COMMON ROOM


神童寺御朱印
神童寺本堂
山奥の修験道のため訪れる人は少ないのですが見所満載です
白不動、役行者、そして天に弓を放つ愛染明王
そして御住職のお話は忘れられません
神童寺付近の街並み
瑞巌寺五大明王
すばらしい仏像ですが秘仏のためになかなか見られません
私は東京で拝観しました
東寺五重塔
国宝 江戸時代再建の日本一の高さを誇る塔
東寺御朱印
弘法大師の御朱印
さすがに達筆だ
不動明王胎内秘仏開帳
案内のフライヤー
横山不動尊春祭りの案内
津波被害を受けた南三陸町の町営住宅
街道を東に進み山を越えると南三陸町
柳津虚空蔵菩薩御開帳
柳津虚空蔵菩薩
御開帳の際いただいたお守り
境内の金剛護童子
不動明王36眷属のうち金剛護童子を奉る祠
境内の五大明王堂
アンコールワット展1
 十世紀後半のガネーシャ
 かぶる方もかぶる方ですが、でもこんなかぶりもの用意する東北歴史博物館の企画好きです
横山不動尊山門
山門の正面額 
大徳寺山号「白魚山」と山岡鉄舟の揮毫
大徳寺遠景
ひっそりした山ふところにいだかれた境内
横山不動尊不動明王坐像
特別許可にてお姿撮影
カツラ材の寄木 像高275cm 総重量300kg
山門の仁王像 吽形
東寺講堂
この中に空海プロデュースの立体曼荼羅の世界が広がる
東寺講堂
屋根出隅の鬼斗の削りが美しい
空海により創建された講堂は焼失し現在の建物は室町時代再建 
 最後に、私の印象に残っている、多少マニアックな不動明王をご紹介いたします。
 京都東寺の講堂は、入った瞬間タイムスリップします。それも宇宙の果てに飛んでいくようです。
サルスベリの不動明王
アンコールワット展2
蔵王権現ポーズとどちらがE難度?
横山不動尊本堂 
焼失後昭和3年に気仙大工といわれる在方集住大工(地方の技術レベルの高い大工集団)によって再建された
本堂の正面額 
堂々としてすばらしい近衛文麿による揮毫
 まずは、一般的な明王の歴史を調べてみます。出現は密教の教えによるものであるため、空海が日本に真言宗を広めた平安時代前期にさかのぼります。その姿は、たとえば装飾品や持ち物、皮膚の感じや身体を合体した姿、そして独特の表情は、全体的にインドヒンズー教の影響を強く受けているのがわかります。他の仏像に比してとても多様性があり、エキゾチックで謎めいたものが多いと感じます。
 伝来は多くの国を経由して日本に伝来していますが、たとえばチベットなど現存している仏画や仏像を見ても、明王の姿は日本のそれとは相当に違うようです。したがって、日本に伝来した後に、極めて日本独自に、日本人に受け入れやすく人々の心に浸透し、変化発展をしていったように思えます。
 
 以前、東北歴史博物館において「アンコールワット展」が開催されました。その際に見たものは、摩訶不思議な宗教観と人間の業の本質を浮き彫りにしたような多くの石像でした。それらのひとつひとつの石仏を鑑賞していると、今の自分の行いについて問いかけてくるような、そんな感覚をおぼえました。
 アンコールワット展を通して感じたことは、民族の違いによって多様化する密教美術が、仏像や仏画などの変化の過程において社会性や人間性を色濃く反映しているため、その国が歩んできた歴史を感じることができるということです。
 まさに不動明王の源流を観たような気がします(写真参照(笑))。
 前回のさまよい紀行では、最初に興味を持った仏像の話を書きました。みなさんが最初に興味をもたれたのはどのような仏像でしょうか。
 日本の代表的な仏像を挙げようとすると、どうしても中央の仏像が思い浮かぶものです。しかし、以前ご紹介いたしました、岩手の毘沙門天や高僧徳一に由来する福島会津地方の仏像、さらにはまだご紹介しておりませんが、山形慈恩寺の多くの仏像群など、東北にもすばらしい仏像がたくさんあります。みなさんの身近にも、その時代ごとに、民衆の中に溶け込み慕われた仏像があるのではないでしょか。
 さて、私の住む宮城県にも、中央に負けないくらいの巨大(丈六)で力強く、そして美しく、とっても優しく慈悲に満ちあふれたお不動様がありますので、今回は平安時代から近隣の人たちに愛されてきた、横山不動尊の不動明王坐像にスポットを当ててご紹介いたします。
 広島不動院は被爆した国宝建築物です。被爆して苦しむ人たちを守ってくれたに違いない。
境内にある青銅五重塔
江戸時代1765年製造の記録がある
バランスが良く安定感があり美しい 県の重要文化財
横山不動尊境内案内板
もともと不動尊は山の上にあった
本堂の前池 
大正15年の火災ではこの池に不動明王を引きずり出したといわれる
池には天然記念物のうぐいが生息する
大徳寺横山不動尊御朱印
 堂々として躍動的
不動明王の説明板
不動明王胎内秘仏開帳の詳細
参道と山門
 密教の最高仏は、大日如来になります。そして、教える相手に応じて大日如来は個性的な明王に変化し諭すのです。
 変化した代表的な明王としては、不動明王、降三世(ごうざんぜ)明王、軍茶利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王の五大明王、そして、愛染(あいぜん)明王、孔雀(くじゃく)明王、大元帥(だいげんすい)明王、烏枢沙摩(うすさま)明王などがあげられます。
 その中の最高位に位置する不動明王のイメージは、宝剣・ロープ(けん索)などの武器を持ち、口元からはキバを突き出し、激しく憤怒の表情で煩悩を打ち砕く武闘家ではないでしょうか。
 実際にお不動様の前に立つと、そのお姿は燃えさかる火焔光背を背に、カッツと目を見開きにらみを利かせ私を威圧します。しかし、その憤怒とはミスマッチな片側おさげ髪(弁髪)やヘアバンド(しゃけ)頭上の花飾り(蓮華)、そして腕釧(わんせん)といわれる腕輪などで華やかに飾っていることもあります。さらにポッコリしたお腹で、条はくといわれるタスキの衣から露出した腕などは、むしろ、筋肉の凹凸はなく、すべすべなめらかな丸みを帯びていることが多いと思います。
 他を威圧する表情と武器を持つ両手、ふくぶくしい幼児体型の身体と、女性的なヘアスタイルや装飾品、いったいどのような経緯でこのような対比的な形式に完成したのか興味深いものがあります。もちろん一つ一つに意味があることは文献等で知っていますが、私にはもっと違う理由があるのではないかと勝手に想像しています。
 不動明王の眷属構成としては、五大明王の形式のほかに、八大童子や三十六童子をしたがえることがあります。特にそのなかから制吒迦童子と矜羯羅童子を眷属にした三尊はよくみられる形式だと思います(横山不動尊は坐像三尊)。
山門の仁王像 阿形

第19回『建築と仏像のさまよい紀行』横山不動尊をたずねて

大徳寺 横山不動尊

不動明王坐像(重要文化財 平安時代後期 像高275cm) 

所在地 宮城県登米市

 各地に残る不動明王は、地域の人々に愛され親しみをこめて愛称で呼ばれることも珍しいことではありません。たとえば、東京では五色不動として、目白不動、目黒不動、目赤不動、目青不動、目黄不動として信仰されていて、その名残が、目白や目黒といった地名で残っているのだそうです。
 この話は、白不動で有名な京都神童寺の御住職におうかがいいたしましたが、神童寺の不動明王は、光背も含め白粉で塗ったように全体が白くなっています。そしてその像は、最古の不動明画として有名な円珍が中国からもたらした黄色不動の形式の最古の立像のようです。
 さて、不動明王として最も古いものは、空海プロデュースの立体曼荼羅で有名な東寺不動明王があります。仏像好きにとっては、東寺講堂は聖地でもあり、五大明王をはじめとした圧倒的な仏像群には言葉を失います。情報のない平安時代にこのような姿を目の当たりにしたとき、当時の人々はどのような心持でお参りしたのでしょうか。
 
 さてだいぶ横道にそれてしまいましたが、ここから、今回さまよった宮城県登米市の大徳寺横山不動尊不動明王坐像について書きます。
 
 お姿は、やや頭がちで、身体は頭に比べて細身です。弱気を助け強気をくじき一生懸命になりすぎてやつれたのでしょうか。とっても頼もしい不動明王なのですが、優しい面立ちについそんな風に感じてしまいます。
 お腹は特徴的なポッコリ型です。東大寺仁王像のときも書きましたが、すべてが筋肉質にもかかわらず、お腹がポッコリしているのは、そのことで、祈る人に安心感を与えるためではないでしょうか。お腹を見ていると、憤怒の表情で怒られても、なんだか優しく見守ってくれている感じがします。
 髪型は弁髪でねじりながら左肩に先端が三本に分かれてさげます。三本に分かれる髪先は珍しいのではないでしょうか。左肩は慈悲の象徴と言われ、三本にわかれた髪は、きっと意味があって煩悩であったり、願いであったり、悔いであったり・・・。私はお不動様の髪先に、平和な世界を祈念したいと思います。
 両目はともにパッチリ見開き、上の歯で下唇を噛み、両サイドのキバは下唇の上に出ています。眉間にしわをよせ額にもV型のしわが見られます。しかし、鎌倉時代の不動明王に比べると、憤怒を強調せず、むしろ優しく愛らしく、私には、煩悩を打ち砕く険しさよりも菩薩のように見守ってくれているようにさえ思えます。この形は、東寺の不動明王にも似て、初期の不動明王の姿だといえると思います。
 
 震災後、修復される前の不動明王は、左ひざに欠損がありましたが、それは、大正時代の火災時に堂内から引きずり出した時の傷跡だとうかがいました。その救出劇はすさまじく、着物の腰紐をもつなぎ、お不動様にからませ堂内から前面の池に引きずり出したそうです。まさにそのときの傷跡が、左ひざの欠損だったようです。さらに、2011年の震災によって、2m近い重い剣を持つ右腕が下がってしまいました。
 不動明王のお身体は、まさに満身創痍の状況でしたが、ついに修復をするため約2年間横山の地を離れることになりました。
 おそらく江戸時代前期、伊達綱村公の庇護の下で修復された後は、痛んだ巨体をそのままに、人々を守り続けていたに違いありません。
 伊達綱村(幼名亀千代丸)といえば、歌舞伎で有名な「伽羅先代萩」の鶴千代丸のモデルです。伊達騒動の発端となった領地争いの現場もこの近くで、さらに仁木弾正芝居の上の憎まれ役、原田甲斐の首塚もこの近くにあるとかないとか(東陽寺)。ここ登米市は歴史の街です。
 
 まだまだ復興なかばの宮城県でしたので、仕事で疲れ癒されていた私には、お不動様のいない横山は残念でした。しかし、それもやむをえないことだったと思います。
 
 現在は、写真の通り修復され、本堂の中央に制吒迦童子と矜羯羅童子を従えて、堂々としたお姿で鎮座されております。
 横山不動明王は、平成9年に国の重要文化財に指定されました。最近になって指定されたことからわかるように、いわば隠れた秘仏だったのでしょう。火災や風雨においても近所の人に守られ愛された仏像は、宮城県の人里はなれたところで、これからもたくさんの人をお救いになられるのだと思います。
 横山不動明王のある登米市は、宮城県の北部に位置し、不動尊の前の道を東に進み、山を越えるとすぐに南三陸町(旧志津川町)に達します。
 横山地区のその街道を歩くと、いかにも古そうな木造2階建ての旅籠だったらしい建物に出会います。南側が片側廊下で、低い木製手摺りの付いたガラス窓の旅館のたたずまいは、お不動様参詣の門前町として栄えた当時をほうふつさせます。目を閉じ静かな山間の街道に身をまかせると、いつしか遠くから参詣に訪れたたくさんの人々の喧騒が聴こえてきます。
 
 先ほども書きましたが、山を越えるとすぐに南三陸町に入ります。南三陸町志津川は、東日本大震災の津波によって壊滅的な被害を受けました。志津川から比較的近い横山不動尊の周辺には避難所や仮設住宅ができました。
 被災地で救援活動をされていた方々は、瓦礫とホコリにまみれた街から、山を越えお不動様の境内に入ると、たくさんの木々につつまれ癒されたと聞きました。
 
 私は以前、津波避難ビルという特殊な建物を設計しました(町営松原住宅)。
 私の専門は、建築物に作用する力に対して、その作用外力を解析し建物の性能を解析し安全な建物を設計する構造設計です。おそれ多くも自然に対する挑戦を日々行っているのですが、作用外力というのは人間が想定するもので、今回の津波を目の当たりにしたときは、人間の愚かさを認めざるをえませんでした。
 当時は、津波の規模が半分以下のチリ地震津波を想定していたため、今回の巨大な津波高さを考慮していませんでした。したがって、まちがいなく避難ビルとしての機能を満たしていないことは明白でした。
 震災当日、津波の映像や情報を得たときは、自分のなかで技術者としてのあるべき姿と、想定外を言い訳に責任回避するといった法律論の狭間で大いに気持ちが揺れていました。
 それというのも、町営松原住宅は岸壁のように正面を海にして、海岸から数メーターの立地でコンクリートの4階建で設計したのです。
 屋上まで津波が到達し、周囲すべてが海になってしまったそうです。結果的には倒壊せず避難した方々は全員が無事だったと報告を受けています。しかし、足元に迫る波の恐怖は、50名近く避難した方々にとって死を覚悟した究極の状況だったはずです。
 怖くて現地に足を運べない時期、私は、とてもやさしい御住職のお母様に救っていただいたと感謝しております。
 復興はまだまだです、震災によって日常を失った人たちが、あたりまえの日常を取り戻せるように、あらためてお不動様に祈念いたします。
 
 
 余談です。街道沿いには柳津虚空蔵尊があります。虚空蔵菩薩とは、不動明王同様に大日如来(金剛界)の変化といわれます。昨年、三十三年に一度の虚空蔵菩薩の御開帳がありました。
 年齢的に次の三十三年後の御開帳には立ち会えません。私自身、人生を逆算する年齢になったのだとしみじみ思います。
 
 もうひとつこぼれ話です、以前、横山不動尊のサルスベリに落雷があって、ある仏師がそのとき折れた木を譲り受け、不動明王を彫ったそうです。ところがそのお不動様が夜な夜な動き出してしまうということで、現在は本堂に安置されています。その写真も掲載しています。
 今回は、御住職のお許しを得て、お不動様やサルスベリの不動明王などの写真を掲載させていただきましたのでご覧ください。
 
 本年4月27日から5月7日まで十二年に一度の胎内秘仏の御開帳もあります。ぜひ、仏像好きな方も、仕事で疲れた方も、幸せいっぱいな方も、宮城県登米市のお不動様の優しさにふれてみてください。
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横山不動尊の正面冠木門
広島不動院御朱印
 京都三千院の平安時代の不動明王は金色不動として一年に一時期御開帳されます。また京都東福寺塔頭の同聚院不動明王は康尚の唯一の作品です。
広島不動院金堂
第一回さまよい紀行で書いた禅宗様国宝建物
同聚院御朱印
同聚院は京都東福寺の塔頭
堂内には平安時代中期の仏師で定朝の父康尚の唯一の仏像がある
じゅうまん不動といわれ、力強さと迫力に引き込まれます
怒りの表情にしびれます
 京都南山城神童寺白不動
三千院御朱印
京都大原にある門跡寺院の御朱印