COMMON ROOM


達谷窟毘沙門堂
賢治の小説の舞台になった人首地区の風景
立花毘沙門堂宝物館
立花毘沙門堂狛犬
立花毘沙門堂案内板
立花毘沙門堂本堂
立花毘沙門堂
邪鬼おしり
毘沙門天脚部
毘沙門天腹部
毘沙門天頭部
毘沙門天と脇侍
僧形像
十一面観音像この横姿が美しい
十一面観音像
兜跋毘沙門天後ろ姿
兜跋毘沙門天クン後ろ垂れ
兜跋毘沙門天けい甲
地天女
藤里兜跋毘沙門天
藤里毘沙門堂宝物館
藤里兜跋毘沙門天
 地方にこのような個性的な仏像があって、それを目の当たりにできる幸せは、まったくもって感謝の一言です。
 収蔵庫には、さらにすばらしい仏像がたくさんありました。プロポーション抜群の十一面観音は、可憐で、優雅でとても美しい仏像です。また、顔や頭も含め、全身にわたってなた彫りされた僧形像は、かなりの部分が破損していましたが、そのノミの跡が東北独特の神像として崇められていたことが想像できます。
 また、この地が、京都から鎌倉の政権によって支配されてしまう鎌倉時代の毘沙門天像と吉祥天、善賦師童子の三体が並んでいます。端整な顔の毘沙門天は、荒々しさよりも理性的で知的な印象です。踏みつけられている邪鬼もどこか楽しそうに見えるのは気のせいでしょうか。いずれもすばらしい仏像群ですのでぜひ訪れてみてください。

 今回は、岩手県にある毘沙門天像を求めて歩きました。
 岩手県には、南から藤里毘沙門天、立花毘沙門天、成島毘沙門天の三体の魅力的な毘沙門天があります。三者三様それぞれがとても個性的な仏像ですが、撮影を許可していただいた、藤里毘沙門堂の諸像を中心にご紹介いたします。
 そもそも毘沙門天とは、四天王の中の北方を守護する多聞天です。四天王がグループで奉られる場合は多聞天、単独の場合は毘沙門天になります。そのなかでも、西域起源の像は兜跋(とばつ)毘沙門天といわれており、藤里と成島の毘沙門天は兜跋毘沙門天の形式をとっています。
 兜跋毘沙門天は、地天女といわれる地面からにょっきり飛び出した女性の手の上に立っています。これはもともと、敵に包囲された時、地天女が地中から毘沙門天を誕生させ敵を撃退したという伝説によって生まれたもののようです。東寺の兜跋毘沙門天は特に有名で、顔の表情(特に目の形)や服装に、西域的なエキゾチックな雰囲気を持っています。
 さて、東北の毘沙門天はどのような意味合いがあるのでしょうか。一説には、奈良時代末期から平安時代前期にかけて蝦夷征伐のため東北に赴任した征夷大将軍坂上田村麻呂の偶像ではないかとも言われております。
 もちろん、蝦夷を基準に考えるならば、憎い敵でしょうが、どうやら、田村麻呂の化身として、長い間崇拝されていたことを考えると、単純に、ワンマンな独裁者的な評価をすることはできません。
 藤里毘沙門天のある、現在の奥州市を中心に繰り広げられた田村麻呂軍と蝦夷軍の激戦は有名で、最後はアテルイやモレが率いる蝦夷側が降伏することで一旦決着します。しかし、その後もゲリラ戦などが繰り広げられ、今も知名として残る人首(「ひとかべ」と読みます)というアテルイの後継者が討ち取られるまで、長い間戦いの地になっていました。そして、最終的にこの地は、中央集権国家の管理化に置かれることになりました。そのような歴史的な背景を確認しながらさまようと、また違った意味で仏像や町並みを観ることができます。

 だいぶ前置きが長くなりましたが、その英雄として奉られている可能性のある、毘沙門天像をたずねました。
 まずは藤里毘沙門堂をご案内します。所在地は、岩手県奥州市江刺藤里です。周囲を山に囲まれた静かなたたずまいのなかに、ひっそりと堂宇があります。
 訪れた日は、真っ青な高い空に太陽がまぶしく輝く小春日和の陽気でした。木々は色付き、落ち葉はカラフルな絨毯のようです。保管されている収蔵庫は、山の中腹にあって、近くまで車で行くことができます。
 細い上り坂を慎重に進むと、コンクリート造の建物がさらに階段を上がったところにありました。収蔵庫は近隣の方が管理されていて、到着日時をお知らせして拝観させていただくことができます。
 扉をあけると、なた彫りで作り上げられた兜跋毘沙門天(平安中期)が目の前に現れました。驚きました。円空仏を観たときに感じた、精霊のような神秘さ、そして荒々しいなかに素朴で温かい感じがしました。地天女の上に堂々と立ち上がった姿は、おそらくは田村麻呂の化身なのでしょう。腕やすねにのこる鉈(なた)の跡は、あきらかに命をかけて戦場で戦う軍人の緊張感を感じます。如来や菩薩にあるような優雅な衣文になれている私には、とても新鮮にうつります。
藤里兜跋毘沙門天の甲
 次は北上市にある立花毘沙門堂です。ここには重要文化の毘沙門天(平安中期)があります。北上市の市街地から北上川を渡り、川向こうに毘沙門堂があります。現在は、山の北側の麓にひっそりとありますが、以前は、この山の周囲に36カ所ものお寺があったと言われています。
 この収蔵庫を管理されているのも、藤里毘沙門堂と同じように、事前予約をした上で、近隣の方に鍵を開けていただきました。
 管理されている方から貴重なお話をいただきました。坂上田村麻呂が、征服地と中央政権の共存政策を行い、地元の人たちと打ち解けることができたため、坂上田村麻呂を悪く言う人が少ないのではないかと、お話されていました。確かに侵略した地に彼の偶像が置かれ、今もなお信仰の対象として大切にされていることがうなずけます。
 収蔵庫には、毘沙門天以外にもすばらしい仏像が安置されています。四天王のうち右手を高々と上げた増長天(多聞天とも言われる)と、左手を上げた持国天が一対になって配置されています(いずれも平安後期)。
 それらは、どっしりとした腰周りで邪鬼を踏みつけますが、足元は細くやさしく雲の上に舞っているように優雅です。風にやわらかくたなびくそで口(くん衣)は、美しく円を描き、指先は爪の先まで神経が行き届き繊細です。ここも、とてもすばらしい個性的な仏像郡ですのでぜひ訪れてください。

第17回『建築と仏像のさまよい紀行』 

岩手県の毘沙門天

拝観した建物
藤里毘沙門堂 重要文化財兜跋毘沙門天 (岩手県奥州市)
立花毘沙門堂 重要文化毘沙門天    (岩手県北上市)
成島毘沙門堂 重要文化財兜跋毘沙門天 (岩手県花巻市)

 最後に成島毘沙門天です。
 5m近い巨大な兜跋毘沙門天(平安前期)が、尼藍婆と毘藍婆を従え安置されています。毘沙門天は、勇壮な武具をまとい、がっしりした構えで堂々としたたたずまいでした。これは、あきらかに坂上田村麻呂をほうふつさせるもので、火炎の頭光は鮮やかな赤色で力強さを強調しています。さらには武具を彩る赤や緑そして金伯が見事に残っています。
 脇には、吉祥天(平安前期)と伝わる、ゆったりした構えで、穏やかな伏目がちのすばらしい仏像が安置されています。あたまには、歓喜天を思わせる二頭の象が配置されています。
 そして、なんといっても木目が美しい。計算されたように年輪が体の部分に現れています。私には毘沙門天以上に崇高なお姿に感じました。
 
 中央から遠く離れた岩手の地に、このようなすばらしい仏像が残っていて、大切にされていることを見ていると、あらためて坂上田村麻呂が凶悪な征服者ではなく、地元の方々を尊重し打ち解けていた証ではないかと思えてきます。
 今回のさまよい紀行は、岩手県の毘沙門天を訪ね歩きましたが、とても感動しました。最後に人首地区街道沿いの写真と、達谷窟毘沙門堂の写真を載せました。いずれも、蝦夷と中央政権との関係する土地です。
 藤里毘沙門堂をさまよったある日、人首地区街道沿いを遠野方向に車で進めると、四方を紅葉で見事に染めぬかれた場所に出ました。好天に恵まれ、真っ青な秋空と紅葉の景色を眺めていたら、突然バケツをひっくり返したような凄まじい雨に言葉を失いました。あの美しかった山の姿は一瞬にして消えてしまい、あたり一面が糸を引くような雨の線でおおわれ、広重の浮世絵のような世界でした。そして、しばらくすると、それまでの雨がうそのように晴れ上がり、もとの紅葉が浮かび上がりました。
 賢治の童話にもえがかれそうな不思議な体験をしました。
 そしてもう一枚の写真は、平泉の達谷窟毘沙門堂です。この地は、蝦夷の悪路王がたてこもり、最後に坂上田村麻呂によって斬られ場所といわれています。田村麻呂が創建した清水寺似た懸け造りの建物です。
 岩手県には、他にもたくさんのすばらしい遺跡や遺構が残っています。のんびりさまよえたらとても素敵な旅になると思います。
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