COMMON ROOM


唐招提寺経蔵
薬師寺西塔(昭和時代に復元)
唐招提寺経蔵校倉詳細
頭塔
奈良市内にあります。塔の原型なのでしょうか。
新薬師寺本堂
薬師如来坐像や塑像の十二神像が安置される
架構を見る事ができるが、シンプルな構造で、耐震機構を理解することができない
奈良時代の耐震性能はどうなっているのだろうか。奥が深いです
法隆寺伝法堂
唐招提寺講堂
東大寺三月堂(法華堂)向かって左側が奈良時代
東大寺三月堂左側
不空羂索観音はじめ多くの仏像が安置されています
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法隆寺東大門

第12回『建築と仏像のさまよい紀行』 

奈良時代の建物所感

所在地  奈良県

拝観した建物 法隆寺・薬師寺・唐招提寺・新薬師寺・東大寺
當麻寺・観音寺・頭塔

 今回のさまよい紀行は、奈良時代の建造物の復元設計を終えたので、その結果を踏まえ、奈良時代の建物について書きたいと思います。上記の写真は、今回解析に参考とした回廊です。
 法隆寺の回廊は飛鳥時代の単廊です。廊下の奥は奈良時代の経蔵になっています。薬師寺の復元した回廊は奈良時代の複廊です。薬師寺の復元には西岡常一棟梁がかかわっていました。


 前回律令国家の黎明期という表現を使いましたが、建築の技術においても、いうなればその後続く木造建築における黎明期という時代が、古墳時代の次である飛鳥だったと思います。

 現存する古い木造建築としては、法隆寺の金堂・五重塔・中門・回廊は、飛鳥時代の木造建築物といわれております。すなわち世界最古の建造物の遺構です。また、斑鳩に建つ法起寺三重塔は、飛鳥時代の創建の様子を今に伝えるすばらしい建物です。

 奈良時代の建物としては、前回紹介した唐招提寺金堂講堂や東大寺転害門、法隆寺所建物・薬師寺東塔・當麻寺東塔・新薬師寺本堂などが挙げられます。
 いずれの建物も、礎石の上に柱を立ち上げる石場建ての建造物です。

 さて、木造建築を遡ると、縄文時代は、掘立柱工法の竪穴式住居が建設されていたようです。その後、土間形式だった床を高床の建物に変化させます。その遺構は現存しませんが、縄文弥生古墳時代の木造建築物の様子は、埴輪や銅鐸に絵画として残っています。その流れは、伊勢神宮の式年造替として今に伝えられています。
 それでは、どうして伊勢神宮の諸建物は、礎石を利用した石場建てにせず、腐朽の早い掘っ立て柱の形式を継承しているのでしょうか。その工法は、耐久性においは非常に不利です。
 式年造替は劣化した柱の交換の必要性からでしょうか。式年造替であったため、劣化を気にする必要がなかったため工法変更に至らなかったのでしょうか。白木の柱が、土から立ち上がる姿は、神秘性を持ち生命の力強さを感じます。色彩しない原木が、掘っ立ての形で地中に埋設する工法は、自然崇拝の宗教性によるもののような気がします。

 余談ですが、先日、歴史的建造物を見るため長野県別所温泉に行きました。安楽寺三重塔や中善寺薬師堂などすばらしい建物が残る町です。昼食に立ち寄った「美田村」という蕎麦屋さんのご主人から、諏訪大社御柱祭のお話をおうかがいいたしました。写真を見せていただきながら、お祭りで犠牲になった方のお話や、御柱祭に対する思いをお聞きしました。
 掘っ立て柱の伝承のように非常に神聖な行事であることが良くわかりました。同様に、仏教伝来以前の日本人の神への信仰心がとても強く感じました。

 飛鳥奈良は、仏教と同時に建築技術の伝来によって、日本中が文明開化のような変革があった時代です。伊勢神宮の形式は合理的な石場建てを採用せず、掘立柱の建築工法を維持したことは、日本人の本質を知る上で非常に重要だと考えます。
 飛鳥奈良時代になり、仏教建築の伝来にともない国内の建造物は、掘っ立て柱は消え、石場建てといわれる礎石の上に建造されるものに変化します。

 技術は日々進化するものです。最初から完成品があったわけではありません。建築の技術においても試行錯誤を繰り返しながら現在に至っています。
 その成長のスピード感は時代によって違います。特に木造に関しては、需要が多かった時代の発達は著しいものがありました。そして、鎌倉時代には、以前のさまよい紀行でも書きましたが、大仏様や禅宗様といった、かなり完成度の高い技術により建造されていたと思います。

 掘っ立て柱から石場建てへの工法変更は、片持ち形式で固定支点として自立できていた柱脚が、不安定なピン接合の柱脚への変化でした。そのことは、柱脚部分において耐震性能の低下を意味します。
 それでは、当時の技術者はその対策をどのように行ったのでしょうか。

 奈良時代の復元設計を行った結果、当時の建物の耐震性能は極めて低いことがわかりました。
 奈良時代の工法で、建物の耐震要素として考えられるのは、傾斜復元力抵抗と頭貫による曲抵抗があげられます。そのほか、連子窓や築地塀・土壁によるせん断抵抗力や、腰垂れ壁の柱の曲げ抵抗力の補助材が考えられます。しかし、屋根面の水平剛性や抵抗力を客観的に数値化することが難しく、さらに柱頭組物の挙動など、設計においては建築基準法に適合させることは非常に難しい問題でした。

 法律はさておき、とにかく神がかり的(仏がかり的とでも表現するのでしょうか)な見えない力が働かないと、1000年のあいだ地震の被害を受けずにきたことが信じられないというのが、復元設計をした正直な感想です。
 このたびの熊本地震によって、不幸にして倒壊崩壊した阿蘇神社社殿は、どのようなメカニズムによって地震抵抗をしたのでしょうか。詳細な調査報告が作られることを期待したいと思います。

 私は、今から30年ほど前に、宮大工の西岡常一棟梁にお会いしたことがあります。当時、棟梁の書かれた書籍や建物を見せていただき深く感銘を受けていたので、私にとっては憧れのスターでした。斑鳩の多くの社寺や、薬師寺の諸建物を復元された西岡棟梁は、飛鳥奈良時代の宮大工の姿をほうふつさせました。
 たまたま薬師寺を訪れていたとき、拝観受付で西岡さんが境内にいらっしゃることをうかがい、ずうずうしくも、現場事務所にうかがった時、以外にも室内に入れてもらい、ゆっくりお話をさせていただいたことを昨日のことのように思い出します。
 無知とは怖いもので、失礼なことをたくさん話したと思います。それでも学生だった私に対し、棟梁は太い低い声で丁寧にお答えいただきました。背の高いがっしりした体型で、とても怖い人だと思っていましたが、親しく話していただくうちに、なんだかうれしくて、「薬師寺の東塔が一番好きです。西岡さんにとって、東塔を建てた当時の宮大工さんをどう思われますか?」と質問しました。そのとき棟梁の顔がものすごく険しい顔に変化したことを今も鮮明に覚えています。怒らせたと思いとても緊張しました。結局、そのときは答えてもらえず、太い声で「作業場を見てきなさい」と言われました。
 その間、なんであんなことを聞いてしまったのだろうという後悔の気持ちでいっぱいでした。槍鉋で仕上げた柱や組み物をみていても、まったく気もそぞろで作業風景を見学しました。当時、西塔が完成したものの、シブい東塔に比較して、派手な西塔に対する批判があったようです。したっがて、かなりデリケートな東塔の話を質問、西塔の棟梁に対してしまったわけです。
 現場を一周したあと、お礼のために気を取り直して現場事務所の2階にあがり、通りいっぺんの挨拶をかわしたあと帰ろうとしたとき、西岡さんが私に声をかけてくれました。
 「君はさっき東塔の大工の話をしたな。私は名人だと思う。」ひと言、そのように答えられました。
 その言葉にしびれました。わけもわからずこみ上げるものがありました。西岡さんという名人の口から発せられた「名人」という言葉の重みは、今も私の生き様に大きな影響を与える言葉になっています。

 その東塔は、現在解体修理を行っています。東大名誉教授の内田先生の関係で解体修理の様子を見学させていただきました。細部の部材の架構状況をみながら、西岡さんの姿を、施工した奈良時代の宮大工に投影し見学してきました。残念ながら写真は掲載できないので、読者の皆さんは組物や芯柱の様子を想像して完成を待ってください。

 先ほども書きましたが、奈良時代の建物の復元設計が終わりました。当時の建物の挙動を建築基準法に適合させることが難しいため、今回はアクロバットな工法によって復元しました。
 飛鳥時代以降のエンジニアによって、技術研鑽され創られ継承した工法は、とても神聖なものだと思います。しかし、今回の復元設計は、奈良時代の主要工法である傾斜復元力と頭貫で耐震性能を評価することができず、不本意ではありますが現代の技術を活用して設計いたしました。来年には仙台市内に奈良時代の建物を観る事ができると思います。
 構造力学の先生方にアドバイスをいただきましたが、私の考えとおおむね同様の評価でしたので、現時点での解析方法としてはベストだったと思います。
 西岡さんがご存命であれば、すぐにでも相談したかったのですがとても残念です。
 なんていわれたかなあ・・・

 以下に奈良時代の建物をアップしました。ご覧ください。

東大寺転害門
南都焼き討ちから逃れ奈良時代の東大寺を伝える遺構
當麻寺東塔
2つの塔が並んでいる伽藍は珍しい
ちなみに西塔は少しだけ遅れて平安時代前期の作品
観音寺本堂(木心乾漆の国宝十一面観音像が安置されている)
美しさに言葉を失います
本堂は後世の建築ですが、奈良時代の十一面観音像がすばらしいのでここで載せました
観音寺の縁起
法隆寺回廊
薬師寺回廊