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 法用寺は金剛力士像を見たくて訪れたのですが。素朴ですが力強くすばらしい仏像でした。遠くに見るだけだったので残念ながら詳細は不明です。
 最後に虹梁の上の屋根を支える鬼の後姿です。男の哀愁を感じます。日本の建築を支えてきた技術者は、徒弟制度のなか、寡黙に仕事をする印象があります。耐え与えられた仕事を一生懸命する姿は美しいと思います。
 ネットからダラダラと漏れ流れる大量の情報の中、「自分さえ良ければ良い」そんな声が大勢を占め、思いやりや勤勉といった日本人が本来持っていた資質はなんだか遠い世界のような気がします。
 屋根を支える鬼の後姿に、私は頑張らなければと思いました。
慧日寺中門
慧日寺中門脚部
慧日寺中門側面
慧日寺中門内部骨組み
 常福院薬師堂は、車で法用寺に移動中たまたま偶然通過して目に入ったお堂です。禅宗様のすばらしい建造物が、案内板もなくポツンと存在することじたい驚きでした。あやうく見逃すところでした。会津恐るべし。

第10回『建築と仏像のさまよい紀行』 

慧日寺(恵日寺)金堂及び中門

所在地  福島県磐梯町

建物概要 金堂 桁行七間・梁間四間・とち葺き寄棟造り
     中門 桁行三間・梁間二間・とち葺き切妻造り

建立時期 807年(大同二年)平安時代初期徳一により創建
               火災等により消失 
              平成20年から21年に復元

常福院薬師堂正面
常福院薬師堂側面
熊野神社長床側面
熊野神社長床正面
慧日寺中門垂木トチ葺き
慧日寺金堂内部
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常福院薬師堂詰組
慧日寺金堂脚部
熊野神社長床内部
慧日寺金堂
 今回のさまよいは、福島県会津地方を旅します。
 福島県は、歴史や気象等の違いにより、内陸の会津地方と中通り地方、そして太平洋に面した浜通り地方に分けられます。
 前回は浜通りの願成寺白水阿弥陀堂でした。そこは、山中に存在する御堂ではありましたが、どこか開放感がありました。しかし、今回の会津地方は四方を高い山に囲まれ、雰囲気がだいぶ違うように感じます。

 私の出身は、会津の北側に位置する山形県高畠町です。高畠町は、会津と同様で四方を山に囲まれた盆地の中にあります。夏は極端に暑く、冬は極端に寒い雪深い田舎町です。稲作はもちろん、葡萄や林檎、洋梨の生産が盛んで、町内にある大聖寺(亀岡文殊)は日本三文殊で有名ですが、徳一和尚が開祖ですので、会津とはなにか共感するものがあります。
 吾妻山飯豊山をはさんで反対側の会津盆地と置賜盆地は、気候風土、そして言葉や文化もよく良く似ているため、会津地方を散策すると、どこか懐かしさや安心感を強く感じます。もちろん、盆地という囲まれた空間に安らぎを感じるのかもしれません。

 仏教が伝来する以前の日本は、山や川や海、湖や森、そのようなすべての自然に神が宿り神聖なものだったに違いありません。特に、活火山の磐梯山の存在には、おおいに畏怖の念を抱いたでしょう。


 慧日は「えにち」と読みます。
 慧日寺は、会津地方に中央の仏教文化をもたらした徳一和尚によって創建されました。東北の仏像を話すとき、必ず徳一が話題になります。徳一は、いわずと知れた法相宗の学僧で、最澄や空海と大論争を繰り広げた人です。彼は、慧日寺をはじめ、国宝仏像をご本尊とする勝常寺や、円蔵寺(柳津虚空蔵尊)や、そのほかにも福島県を中心に、多数の東北の寺院にかかわっています。したがって、東北の仏教の布教に、非常に大きな影響を及ぼした人物だったといえます。


 磐梯山が大噴火したのが806年(大同元年)ですが、彼が慧日寺を創建したのは、翌年の807年(大同二年)といわれています。
信仰の対象である磐梯山爆発し、その噴火によって巨大な猪苗代湖ができたわけですから、当時の民衆は、そうとうの不安と恐怖だったに違いありません。噴火の情報は、奈良京都にまでまたたくまに伝わり、そのことが、徳一の会津入りを決断させた可能性はおおいにあるのではないでしょうか。

 さて、その慧日寺ですが、平安時代には大きな伽藍を有していたようです。しかし、戦国時代の戦火に巻き込まれほとんどの堂宇が消失したようです。その後、江戸時代に再建されたのですが、廃仏毀釈により廃寺となってしまいました。
 近年、発掘調査が行われ、その壮大な伽藍跡が確認されたようです。
 現在は、堂宇の復元工事が行われており、金堂が平成20年に、翌年に中門が完成いたしました。
 金堂は、礎石の調査により間口7間、奥行き4間で、創建当時の時代背景を考慮し、組み物は平三つ斗で丸桁(がぎょう)をのせる形式でした。
 また、発掘調査を行った結果、瓦の出土がなかったので、植物系の屋根葺きを想定し、地元で比較的に手に入れやすい、トチ葺きとしたようです。 

 本建物は、平安時代初期の構造形式を忠実に復元した、他に例のない建物だと思います。
 慧日寺復元建物は、今回どうしても拝観したい建物でした。それはなぜかと申しますと、私が現在設計している建物が、奈良時代の工法を、現代によみがえらせるため、構造解析によって、構造の安全性の確認を行っているためです。
 奈良時代の工法を、現代の法律に準拠して設計するのは至難の業です。創建当時は、コンピュータを利用した構造解析を行っているわけではありません。その時代の最良の工法だと思っていた技術も、時代により変化を続け、たとえば、鎌倉時代には大仏様(第2回第3回さまよい紀行)や禅宗様(第1回第5回さまよい紀行)といった斬新な工法が輸入され日本の建築工法に大きな影響を与えます。さらに日本独自の進化として和様と禅宗様の折衷が生まれ、美しいホルムを見せることになります。

 現在、私が行なっている解析は、いわば日本の仏教建築の初期の段階の復元を行うことになります。その当時の建築は、おそらく海外から技術を学び、日本古来の工法とマッチングさせながら試行錯誤しながら進めたに違いありません。技術の伝承はとても尊いものだと思います。
 歴史的建造物のそれら組み物は、現代の建物と違い、耐震要素としての明確な構造性能を証明する根拠がなく、どのようにして耐震性を確保しているか謎な部分がまだまだたくさんあります。
 したがって、建築技術者の経験の積み重ねによって生まれた工法に対し、おおいに敬意をはらい、謙虚に向き合いたいと、今回、慧日寺を拝観させてもらってあらためて強く感じさせられました。

 慧日寺の金堂及び中門は、いずれも朱と白壁のコントラストが美しく、おそらくは、創建当時はこのような状況だったんだろうと、イマジネーションをかきたてるとてもすばらしい建物でした。そして屋根のトチ葺き板の重なりは連続的な幾何学模様を織りなし、完成したライズは時代をタイムスリップさせてくれる美しさがありました。ぜひ私もこのようなすばらしい復元ができるよう努力したいと思います。
常福院薬師堂扇垂木
法用寺本堂虹梁
 そのほか、熊野神社長床(平安末期和様・重要文化財)、常福院薬師堂(室町時代禅宗様・重要文化財)、法用寺(三重塔は江戸時代・本堂内に重要文化財の金剛力士像2体)の写真を載せますのでご覧ください。

 熊野神社長床は、外壁がないため構造材が建物のファサードを決定しています。素朴でシンプルな構造ですが、屋根のライズを含めた全体バランスや、柱の連続性は平安時代の寝殿風の優雅さを感じます。柱の傷みが激しく、劣化した柱の修復が、文化財の保護の難しさを痛感します。また宝物殿には多数のすばらし仏像が安置されていました。特に相撲をする二体の像は、始めてみるものでしたが、当時の庶民の生活を生き生きと表現したもので、とても興味深く拝観しました。
法用寺三重塔
屋根を支える鬼