第8回『建築と仏像のさまよい紀行』 

北鎌倉の諸堂 東慶寺 円応寺

所在地  神奈川県鎌倉市

建物概要 東慶寺 宗派 臨済宗円覚寺派 創建   1285年(弘安8年)
     円応寺 宗派 臨済宗建長寺派 創建(伝)1250年(建長2年)

東慶寺鐘楼
■ 第8回  2016.03.08UP
仏像展案内板
奈良白毫寺から奈良盆地を見下ろす
円応寺閻魔堂正面庭
円応寺閻魔堂入り口の案内板
東慶寺本堂
東慶寺参道脇のお釈迦様
円応寺閻魔堂参道
東慶寺水月堂
COMMON ROOM

■ 第11回以降
■ 第10回  2016.05.09UP
■ 第9回  2016.04.12UP
 おまけです
 閻魔大王のある寺として、奈良白豪寺があります。この閻魔大王は、正真正銘運慶の子康円の作です。白豪寺は奈良中心部からは少し離れていますが、山のふもとにひっそりとたたずむ、多くの仏像を所蔵するお寺です。ぜひ訪れてみてください。クマというとてもかわいい犬もいますよ。
■ 第1回  2015.08.08UP
■ 第2回  2015.09.09UP
■ 第3回  2015.10.13UP
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■ 第4回  2015.11.09UP
東慶寺の梅
■ 第5回  2015.12.08UP
 先月の「さまよい紀行」は、平安時代末期の奥州藤原文化を取り上げました。今回は、その奥州藤原を滅亡に追いやった、頼朝の本拠地の文化に触れようと思います。

 鎌倉への特別な思いが三つあります。
 一つ目は、昨年お亡くなりなった原節子さんです。私は、彼女が北鎌倉にお住まいだと思い込んでいました。母と子ぐらいの年の差がありますが、憧れの女性だったので、学生のときから北鎌倉の小さな駅に降り立つと、もしかしたら会えるんじゃないかと、彼女のことを想いドキドキしていました。
 北鎌倉は小さな街です。観光地とは思えないほど閑静な住宅街で、質素で上品でオシャレな建物が多いので、そのことが、私に彼女の住まいがあると思わせる要因かもしれません。

 二つ目は、私が行くワインバーに、とても新鮮で美味しい野菜を納入していた農場の経営者がいました。彼は、津波で畑が流され野菜栽培をあきらめ鎌倉に移住しました。
 5年前の話です。彼の自宅と畑の場所は、津波被害を受けていることは明らかでした。連絡が途絶え、とにかく無事を祈りました。
 その後、しばらくして無事が確認でき、家族も全員無事であることを知ったときの安堵感は今でも忘れません。あれから5年の月日が経過しました。海岸線の様子もずいぶん変わりました。海の近くで農業をしていた彼は、現在鎌倉の中心部で飲食の仕事をしています。少しずつ鎌倉の人間になっていくのでしょう。
 彼の店で食事をしたとき、地元の人たちと交流しました。鎌倉は観光地であるにもかかわらず、宿泊施設が少なくて、夜はひっそりしていると言います。ですから、彼のお客さんは、ほとんど地元の常連さんになります。夜の鎌倉は、日中とはまったく別の顔を見せていました。
 宮城で農業に情熱を注ぎ込んだ友人は、今は鎌倉の地で頑張っています。

 三つ目は、私の友人に、歌舞伎十八番『暫』で有名な、鎌倉権五郎景正の末裔がいます。実在の鎌倉権五郎景正は、前回の『さまよい紀行』でも書いた、後三年の役で大活躍したといわれています。
 もちろん、芝居と史実は違いますが、荒事の代表『暫』の中でも権五郎はとても魅力的に描かれています。
 友人は、大学で研究をするかたわら、多彩な趣味を持っています。その知識や経験は私にはとって魅力的でした。そんな彼は大きな志をたてたのですが、サポートすべき私の力不足で、その思をとげることができず、彼にはとても悔しい思いをさせることになりました。そのことは、今でも私の心に大きな悔いとして残っております。先日鎌倉を訪れたときも、友人の無念の思いを、彼の今後の成功に結びつくよう祈念いたしました。

 長々と私事を書いてしまいました。
 本題に入ります。
 鎌倉は、南側を海に、背後は山で囲まれた自然の要塞になっています。したがって、中心部へは切通しを通過することになります。入り口である北鎌倉の幹線道路は、細く山肌に沿うような形に流れており、道路の両脇の家並みや寺の配置によって、独特の景観を示しております。


 その鎌倉へは、雨の降る早春に訪れました。
 冷たい雨のせいでしょうか、原節子さんが亡くなったせいでしょうか・・・、心なしか、落ち着いた静かな北鎌倉でした。

 北鎌倉駅を降りると横須賀線をはさんで左に進むと、円覚寺や名月院(紫陽花寺)があり、右に進むと東慶寺や円応寺があります。
 古刹円覚寺は、大きな伽藍を持ち、第5回さまよい紀行で採り上げた「正福寺」に似ている禅宗様の国宝舎利殿があります。骨組み好きの私には残念ですが、内部公開を行っていません(外観は特別公開があります)。また、舎利殿は禅宗様の代表的な建物として鎌倉に存在しますが、室町時代の作品だといわれています。
 舎利殿をはじめ、鎌倉には鎌倉時代の遺構は残っていないことは、古建築マニアとしてはとても残念です。
 とはいうものの、円覚寺をはじめ北鎌倉の諸寺は、たくさんの小説の舞台になっています。境内を散策していると、ときどき小説の世界に紛れ込んだような錯覚をします。ぜひ、四季折々で訪れてみてください。

 さて、今回の目的である東慶寺は、北鎌倉駅を降りて歩いて5分位の場所にあります。もちろん、いわずと知れた「駆け込み寺・縁切り寺」です。しかし、仏像好きにとっては、「水月観音」という、とても色っぽい仏像があるお寺ですね。
 写真で見ていただくわかるとおり、2月の境内は梅の花が咲き、ほのかな花の香りにつつまれた、やさしさにあふれたお寺になります。
 女性は長い間、権利を認められず、自己主張をできなかった時代があります。傷心し絶望の淵で、本来の自分を取り戻すために、この地に救いを求めてきたとき、もしかしたら梅の香りにつつまれ、癒されたかもしれません。

 この日は、仏像展2016が開催されていました。
 というか、今回は、このイベントを目当てに参拝させていただきました。
 従来であれば、水月観音を拝観するためには、事前予約をしたうえで、水月堂の御仏壇の壁を背に置かれている観音様を、手前側から拝観させていただくことになります。この日はガラスケース越しではありますが、背面も見る事ができました。極めて正面性を意識されたものでありますが、正面向かって右側からみると、鼻筋の通ったりりしい男性のお姿に見えて、反対側の、正面にむかって左側から見ると、うつむき加減で、せつない女性の表情を感じました。また、手や足はふっくらして、なんとも福々しく、そして色っぽく、あきらかに女性をイメージしていると感じました。
 衣紋は、まるで尾形光琳の『紅白梅図』の川のように流麗で、滴るようにみずみずしく、躍動的な中に官能的な観音様でした。
 前面の三つの切り株の存在は、全体的な空間の広がりを感じさせ、自然界のなかにたたずむ観音様を描いたのでしょうか。
 後ろは正面とはまったく違う単純なつくりで、彫る前の木の状態そのままの姿が見られるため、彫り上げる過程で仏師がどのような思いで彫り進めて行ったか、想像するだけでもとても楽しい時間を過ごすことができました。
 ところで、水月観音は、たたずまいやポーズがなんとも人間味のある仏像です。このような仏像は他ではあまり見ません。仏像というよりは、むしろモデルがいて、男性が作り上げた、当時の理想の女性像を見ている気がします。ぜひ、実物をみて鎌倉時代の女性像を感じてください。
 仏像展では、他に6体ほどの仏像が展示されていました。その中でも、乾漆の如来像は、ドッシリとした構えの厳しい表情の坐像で、作製時期がとても古い感じがしました。
 また、「香薬師如来」のレプリカがありました。これは、新薬師寺にあった仏像が盗まれたあと、石膏模型が残されていたため復元できた仏像だそうです。新薬師寺にも、大きな薬師如来坐像と塑像の十二神像の置いてある薄暗い本堂に、同じレプリカがあったことを覚えています。しかし、仏様を盗むとは、まったくバチアタリな人間がいるものです。

 また、別室では、聖観音菩薩を拝観することができました。顔が小さめで、上品で落ち着いた雰囲気の観音菩薩でした。仏像の作りは、切金と土紋によって、細部まで緻密に仕上られています。特に、土紋で装飾された仏像は珍しいのではないでしょうか。
 水月観音や鶴岡八幡の弁財天、円応寺の初江王坐像などの諸像、そしてこの土紋の仏像は、宋の影響を強く受けた鎌倉独特のものかもしれません。

 東慶寺のあとは、円応寺を参拝いたしました。たびたび芸能ネタで恐縮ですが、サザンオールスターズ桑田佳祐の作詞で『愛の言霊』というラップの曲があります。私ぐらいの年齢の方は、酔っ払ってしどろもどろになりながらカラオケで歌ったことがあるのではないでしょうか。そのなかに閻魔堂というフレーズが出てきます。私は円応寺のことを歌っていると思っています。
 堂内には、閻魔大王坐像をはじめ、冥界で出会う個性的な造形の十王像が並んでおります。
 閻魔大王は運慶作と伝わっていますが、製作年代と没年に矛盾があります。解説では、あの運慶が、閻魔様の前に引き出され、生き返えりの条件として自身の閻魔像を製作させ、運慶は、生き返ったうれしさから笑った顔の閻魔像を製作したというから、なんとも人間味のあるほほえましい伝承だと思います。
 ところで、このお堂で知ったのですが、地獄に落ちた悪人を、恐ろしい形相で舌を抜くといわれた閻魔大王自身が、仕事とはいえ、悪人に苦痛を与えるという悪行を日々行っているという解釈で、閻魔様自身が、地獄に送り込んだ数に応じ、鍋いっぱいの赤く煮えた鉛を飲み込むという苦行を課しているのだそうです。また、閻魔様は津波にさらわれた子どもたちを、舌を伸ばして捕らえ口に入れ救ったという、なんだかせつなくもいとしくなるような伝承があるようです。そのため地域の人たちには、子育て閻魔として信仰されているそうです。
 また、円応寺は、以前は海岸に近い場所にあったようですが、江戸時代の津波被害により、現在の北鎌倉に移ったようです。高徳院の露座の阿弥陀如来大仏も、もとは本堂内にあったものですが、津波や台風によって建屋が倒壊し現在の状態になったようです。鎌倉も過去には大きな津波被害が何度もあったようです。今後も注意が必要であるということだと思います。



■ 第6回  2016.01.12UP
梅が咲きほこる東慶寺
■ 第7回  2016.02.10UP
東慶寺参道
白毫寺手拭