今月のさまよい紀行も先月に引き続き、長野県松本市の建物を書きます。

 今回も、前回同様仏像とは縁遠い「さまよい」のため、最初に仏像のさまよい報告をいたします。
 まずはトーハク(東京国立博物館)において、12月11日まで「滋賀県の櫟野寺展」が開催されています。櫟とはいちいの木のことで、寺名は「らくやじ」と読みます。なんでも縁起をみると、最澄が比叡山に堂宇を建てるため、甲賀に用材を求めたさい、夢のお告げで伐った「いちい」の木材で十一面観音を彫刻し、安置したのが始まりだそうです。さらに、坂上田村麻呂が戦勝お礼に自像を安置した際に櫟野寺と名付けたそうです。
 トーハクは、法隆寺館やエントランス右側の11室に、常時所蔵の仏像が展示されているのでいつ行っても楽しめます。さらに、今回のような特別展では、珍しい仏像を拝観することができます。櫟野寺展はエントランス奥の特別5室で開催されています。前回の中宮寺半跏像展があった場所です。
 正面中央には、平安時代前期の総高5m(像高約3m)巨大な十一面観音坐像が安置され、周囲を囲むように櫟野寺所蔵の平安時代仏像が安置されました。
 十一面観音坐像の材種は、「いちい」ではなくヒノキのようです。切れ長ですがしっかりした目鼻立ちで、わずかに伏目がちの優しい表情で、上から優しくみおろしています。顔の輪郭は、全体的にふっくらとしたほっぺで、むしろ下膨れの丸顔です。造形的な特徴として、足元を覆う衣文の彫りに、浅めではありますが鋭角なひだがはっきり見えます。
 表情や身体の特徴を、しもぶくれとか、つり目とか、短足とか、手が長いとか、とにかく好き勝手に評論しますが、本人してみれば余計なお世話ですよね。様子を表現する言葉としては抵抗ありますが、写真を添付できないので、このような見たままの表現になることをお許しくださいと、書きながらそんな風に思います。
 一般的に十一面観音といいますと、たとえば、奈良聖林寺や京都山城観音寺(先日極間近で拝観させていただきましたが言葉で表現できないくらいの優しさが溢れていました)、室生寺、法華寺などたくさんのすばらしい仏像を拝観いたしましたが、それらは、すべてといって良いほど、しなやかで、皮膚感覚がやわらかい女性的なイメージがあります。しかし櫟野寺の坐像は、おおらかで、全身にまとっている金箔(後世の補作のようです)と、圧倒的な質感(胸腹腰などのふくらみは桶を造る要領で薄板を当てて加工しているようです)によって、女性的繊細さや優しさというより、むしろ、男性的な余裕というのでしょうか、何でも受け止めて、解決してくれるような、頼りになる兄貴分的な安心感をもって、優しさを感じさせてくれる仏像でした。そんなことで、櫟野寺の秘仏十一面観音を拝観することで十一面観音のイメージがずいぶん変わりました。
 他の仏像も、それぞれがとても個性的で、洗練さよりも素朴で、むしろそれが厳しさや威厳を強く感じました。たとえば、同時期に作製されたと見られる菩薩が、目の表現や天衣のまといかたが、非常に個性的なので、同一人物により作製されたであろうという解説を読むと、1000年前の工房で行われていた作製様子が想像できて、とても楽しい時間が過ごせました。
 入り口近くの毘沙門天は、縁起で書いていた坂上田村麻呂の自像のなのでしょうか。先日、岩手の藤里・成島・立花毘沙門堂の3箇所を訪れたとき、やはり、坂上田村麻呂の化身と書いてありましたが、巨人でかなり乱暴そうな男性に見えましたが、きっときっとそのような男性だったのでしょう。櫟野寺の坂上田村麻呂は、まとう武具の装飾が、とても丁寧に細部まで彫りこまれていました。そのうえで彫が深くリズム感のある仏像でした。全体的にコンパクトにまとまった、小太りの毘沙門様でした(毘沙門様、好き勝手を書いてすみません。)。

 櫟野寺は、今でこそ中央から遠く離れた地ですが、当時の櫟野寺は、仏教においてとても大きな影響力のある場所だったと感じました。ぜひご覧ください。

 次に、東京の三井記念美術館において、11月13日まで「松島瑞巌寺と伊達政宗特別展」開催されています。
 宮城県の仏像が東京出張しました。実は、展示されている秘仏五大明王像は、33年に一度しか見る事ができません。私は、前回見逃しているので、もし拝観できるとしても2039年まで待つしかありません。年齢的に叶わないとあきらめていましたが、今回の特別開帳で観ることができました。
 本当にありがたいことです。
 不動明王を除く立ち姿の明王は、まとった「もんぺ」のようなクンでしょうか、そのまくり上げた裾の縁が、直方体のように鋭角に削られていた様子がとても印象的でした。不動明王と大威徳明王以外はお顔が大きく童顔で、とてもかわいらしく感じました。全体的に荒削りですが、地元宮城にもとてもすばらしい五大明王が存在したことに、誇らしさを感じました。
 また隣には、不動明王の三尊が置かれていましたが、特に「こんがら童子」のなんとも写実的な表情が印象に残っています。戦国時代を生き抜いた伊達政宗は、どのような気持ちで参拝したのでしょうか。(宮城には他に、横山不動明王という平安時代の丈六のすばらしい仏像があります。ぜひご覧ください。)
旧登米小学校
秋田県北鹿ハリストス正教会聖堂
弘前旧第五十九銀行本館
宮城県登米学校警察署設計者山添喜三郎
旧松本市祭司場
 地方における擬洋風建築を一緒にアップしたのでご覧ください。その中には、宮城の明治村と称される、登米市に残る登米小学校と登米警察署の設計者である、山添喜三郎の経歴も載せております。
 山添氏は、二度にわたる渡航経験によって得た、西洋建築に対する深い知識が、登米小学校の建設に活かされたそうです。仕事に厳しい人で、登米小学校の瓦工事では、一枚一枚を厳重に検査したため、不合格品が多く出て、瓦屋が倒産したというエピソードが書かれていました。妥協を許さないその姿勢は、明治期以降のエンジニアの基本姿勢でしょう。それは、世界に誇る、日本の高い技術力の原動力になったのではないでしょうか。
 私自身、いま一度気を引き締めて、仕事にまい進いたします。

旧開智学校バルコニー
旧開智学校内部階段
旧開智学校内部
根白石小廊下拭き
耐震補強後の仙台市根白石小
根白石小講堂
旧開智学校設計資料
旧開智学校玄関
 スケッチ旅行の際の記録が残っていました。さまざまなものに触れながら、貪欲に知識を吸収しようとしていた様子よくわかります。文明開化を自分の目で確かめて、それをこの開智学校に取り込んだのでしょう。
 開智学校の工事費は、1万1千円だったそうです。貨幣価値が現在とはまったく違うので、高いか安いかは見当がつきませんが、松本市の観光案内では「巨額」とかいてあります。さらにこの工事費用の7割が町全員の寄付で、残りの3割が廃寺の古材売却益等によるもののようです。当時の教育に対する熱心さが伝わるエピソードです。
 また当時の県知事の月給が20円、大工の日当が20銭の時代だそうです。現代の知事月給が160万程度と仮定すると、物価水準は約8万倍となり工事費は約8億円になります(当時の知事と大工さんの給与比は月25日労働で換算すると月給5円となり、4倍程度ですが現代でもその程度の賃金格差があるのでしょうか)。工事費については、私なりに試算すると、延べ床面積が約1000㎡(300坪)の学校は約3億の程度の費用がかかると考えますので、現在の価値に換算すると、当時としては多額の費用負担があったと思います。それを寄付でまかなうとは、日本人の篤志意識はとてもすばらしいと思います。

 余談ですが、仙台市にある根白石小学校という仙台市唯一の木造校舎は、昭和5年に当時の根白石村の予算の2年分で建設されたと聞きました。
 今から10年前になるでしょうか、私は、校舎と講堂を特殊な解析法を用いて耐震補強を行いました。
 解析の際、ご年配の方々から当時の様子をおうかがいいたしましたが、地域の方々、そして子どもたちが、木造校舎に対して、愛情をもって接していらっしゃる様子がとてもよくわかりました。現在は補強工事を施し、現役で小学校として使用されています。
 所在地は松本市の中央部に位置し、松本城の天守閣からも、太陽の光に照らされた白壁の校舎を観る事ができます。
開智学校設計者立石清重
旧開智学校正面
旧開智学校
青森県盛美園
 さて、擬洋風建築の代表的である旧開智学校はどのような建物なのでしょうか。
 設計は1876年(明治9年)で、松本において代々棟梁を継ぐ家に生まれた、立石清重によって設計施工されました。
日本庭園と盛美園
瑞巌寺と伊達政宗展
Copyright(c)2017 kozo-keikaku
■ 第21回以降
■ 第19回  2017.02.09UP
■ 第20回  2017.03.09UP
■ 第18回  2017.01.10UP
■ 第17回  2016.12.10UP
■ 第16回  2016.11.09UP
■ 第12回  2016.07.08UP
旧開智学校内部階段
櫟野寺展
■ 第13回  2016.08.09UP
旧開智学校階段の支柱
 「神は細部に宿る」と表現することがありますが、すべてにおいて妥協しない立石清重の職人気質と情熱、そして、かかわった技術者や地域の方々の熱意の集大成が、このようなすばらしい建築を作り上げたのだと思います。
■ 第14回  2016.09.09UP
■ 第15回  2016.10.11UP
旧登米警察署(宮城県登米市)
青森県弘前図書館
旧登米小学校正面バルコニー
旧開智学校内部階段
 玄関から入ると、真っ直ぐの廊下を挟んで、左右に分かれた教室が整然と配置されています。それまで和様の校舎で学んでいた子どもたちにとっては、おそらく大きな驚きだったことでしょう。
 内部の装飾には、外観からは想像できない純和風な透かし彫りの建具があります。また、アールヌーボーをほうふつさせるような階段の手摺りもデザインされています。
旧開智学校建具
旧開智学校ステンドグラス
旧開智学校内部廊下
 さて、もう一度旧開智学校に話をもどします。
 校舎は外壁を漆喰で真っ白に仕上ており、えんじ色で縁取られた窓枠が美しく浮きだっています。当時ガラスはギヤマンと呼ばれ、非常に高額な建築材料だったそうですが、ガラスがはめ込まれた窓は規則的に壁面を飾り、西洋の城のようなファサードを作り上げています。
■ 第1回-
■ 第11回  2016.06.09UP
旧開智学校概要
 明治時代の初頭の都市は、武家屋敷を中心としたモノトーンの色彩でできた街並みだったと思います。それが、忽然と白亜の校舎が出現したのですから街中が驚いたと思います。
 立石清重は、設計にあたり、洋風建築のスケッチ旅行に出かけているようです。西洋の情報を得るため、外国人が設計した建物だけではなく、食文化など生活習慣などを含め、たくさんの調査を行ったようです。
 しかし、小屋組等の構造体調査はできなかったのではないでしょうか。外観の調査はできても、内部調査は無理だったような気がします。おそらく、外国人によって設計された、西洋建築物の施工にたずさわった棟梁達との技術交流によって、トラス洋小屋などの構造計画がなされたのではないでしょうか。わずかではありますが、当時の洋風建築の骨組みを見ているとそのような感じがします。擬洋風建築物の構造計画が、どのように伝承され行われたか、とても興味があります。

 旧開智学校は、シンプルな木造2階建です。しかし、明治の初期ですから、スケッチ旅行で得られた知識と、今までの社寺建築や城郭のような、大型木造建築で用いられた技術を応用して、必死に建設したと考えられます。
旧開智学校側面

第15回『建築と仏像のさまよい紀行』 

長野の古建築をたずねて第二弾  旧開智学校と擬洋風建築

拝観した建物 旧開智学校(国重要文化財)

所在地  長野県松本市

 そして仏像ネタをもうひとつ、現在、福井県小浜市若狭町を中心に秘仏公開が11月30日まで行われています。奈良京都といった仏教文化の中央都市から離れた地方にも、すばらしい仏像があります。どのようにして地方に伝播していったのでしょうか。当時の仏像を拝観するたびに興味が尽きません。



 ここからは、今回のメインテーマ擬洋風建築の旧開智学校です。
 擬洋風とは、洋風に似せて建てた建物の総称です。
 日本の中華料理店には、広東風とか四川風とか表現している店がありますね。それは本物の広東料理とか四川料理ではないのかもしれません。「風」を添える表現の真意はわかりませんが、はっきり宣言できない自信のない印象を与えます。でもだからといって美味しくないわけではなくて、むしろ日本人の嗜好にあっていて、本家本元より「風」のほうが美味しかったりする場合もあります。
 擬洋風はそんな「風」な建築なのですが、とても素敵な建物がたくさん残されています。


 日本の建築は、外国の建築技術や意匠デザインを、じょうずに取り入れてきた歴史があります。古くは、法隆寺で代表される飛鳥時代の寺院建築や、鎌倉時代の大仏様・禅宗様などがそれにあたります。そのような建物を見てもわかるとおり、たんなるものまねではありません。それらは、ほとんどといっていいほど、日本文化の中に受け入れられ、独自に発展したものばかりです。
 さらに、江戸時代の末期には、外国人の技師を招いて、長崎造船所やグラバー邸が本格的な西洋建築として建てられました。その後、明治時代に入ると、築地ホテルや木骨煉瓦造の横須賀製鉄所が建造され、世界遺産に登録された富岡製糸工場が明治5年に完成しました。これらは、すべて外国人の設計者によって建築されたものです。
 しかし、その後は、これからご覧頂くような、たくさんのいわゆる「擬洋風建築」が日本人の手で設計され建設されてゆきます。

 擬洋風建築は、明治初期の文明開化の大きなうねりの中で設計されたものです。
 建物の中にいると、新しいものへ挑戦する設計者の、脈打つ鼓動までが聞こえてきそうです。当時の設計者の熱い想いが伝わってきます。そして、当時、日本は西欧化することがすなわち近代化であったわけですから、誰でもが感じていたであろう、不安と期待に満ち溢れた想いも、建物の中に息づいているような気がします。

 また、擬洋風建築のなかには、青森県にある盛美園(設計者 西谷市助)のように、建物だけを見ると無節操に派手なのに、庭に建つそれは、古来の日本建築のような奥ゆかしさと気品に満ちた建物のように感じます。その空間は、小さな虫の音さえも逃さない、和の静寂な時間がゆっくりと流れてゆきます。
 建物だけを見ると1階と2階のデザインバランスの違いが気になります。しかし、それが、日本庭園の中にたたずむと、なぜか不思議と調和してしまいます。それは、洋風建築でありながら、日本人の精神をしっかり軸足において設計されたからだと思います。
 建築に限らず、世の中には、似せたものはたくさんあります。たんなるコピー品であれば偽物として酷評されるでしょう。しかし、日本人は、真似るだけではなく、しっかり西洋文化を受け取り、自分を見失わずに、日本文化に融合させていると思います。
 質の悪い下品な「ものまね建築」だとしたら、受け入れられないし、大切にされて現在まで残ることはなかったでしょう。しかしこれらの擬洋風建築は、「擬」と総称されても本物を凌駕する力強さがあります。
松本城からの旧開智学校遠景
旧開智学校玄関正面
根白石小講堂小屋組
COMMON ROOM